2020 1 1

元旦礼拝 聖餐式

ハガイ書

1

あなたの歩みをよく考えてみよ

ハガイ書1:1~15

Holy Communion Objects

 今年のみことばの、ハガイ書というのはなかなか開くことのない書物ですが、1月・2月とハガイ書とゼカリヤ書を共に学んでいきたいと思います。ハガイ書は二章しかありません。今日が1章、その次の5日(日)が2章。 二回しか私(藤本牧師)は予定していませんけれども、少し歴史的なこともお話しいたしますので、ご理解いただければと思います。説教のタイトルは「あなたがたの歩みをよく考えよ」という、5節と7節。


 今、万軍の【主】はこう言われる。

     「あなたがたの歩みをよく考えよ。(5)

 万軍の【主】はこう言われる。

     「あなたがたの歩みをよく考えよ。(7)


この言葉を私は年頭の聖句にしたかったのですけれども、読めば読むほど、14節の方が魅力的に感じてきまして、今日はそのくだりをお話ししたいと思います。














14節が長いので、【主】はという一番最初の言葉と、三行目の「民の残りの者すべての霊を奮い立たせた」 これを今年の聖句と捉えたいと思っています。


 私がこの箇所を示されたのは、昨年の10月でありました。2019年10月に高津教会におきまして、整理収納アドバイザー:井田典子さんによる「モノと時間と心の整理」という講演会を開催させていただきましたが、

正直、エライ人を呼んじゃったなぁという印象がありました(笑)。というのは、私は人生をとても散らかして





Winter Floral Frame
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ハガイ1 14

【主】が、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と、民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の【主】の宮に行き、仕事に取りかかった。




いますので(笑)、整理しろと言われてもどうしたらいいんだろう?というような悩みでもありました。

 両親がゴールデンウィークに、ケアハウスから施設に移った時、私と姉(戸塚伝道師夫人)で引っ越しの手伝いに行ったんですけれども、その床で倒れてしまう位、疲れました(笑)。それは、たった一室――少し大きめなんですけれども――ケアハウスのたった一室の中に、トラック二台分のものが整理されて収められていた。

全部出してみたら、トラック2台もあったのです。整理というのが、どれだけの意味があるのか?

きれ~いに整理すればするほど、物が増えるというのでしょうか(笑)。そんなこともあって、私は井田典子さんがどういう講演をされるのかなぁ?と思っていましたが、開口一番、こう仰いました。

「整理というのは80%捨てることだ。残りの20%を整理すればよい。100%を整理しようとするから問題があるんであって、80%は捨てなさい」と。

これが、2020年の私の指針となりました。

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――「生活を、この人生を整理しなきゃいけないということがどれほど大切か」ということは、私たちみんなよく分かっています。

とても大切なことなんですけれども、「実行することができない」。だから実行している人を講演会に呼ぶと、なんかこう責められるんじゃないかというような思いがしますよね。

 井田さんは、講演会の一番最初に重要なことを教えてくださいました。それがず~っと頭に残りました。

――「知識を意識に下ろしなさい」

知識というのは、私たちが知っていること、分かっていること、頭で理解していることです。それを「意識に下ろす」というのは別次元のことであって、どんなに頭で理解していても、あなたが意識に下ろさない限り、その生き方を貫くことはできない。どんなに整理術というものを本を読んで頭で理解したとしても、それを意識に下ろして実行しない限り、とっ散らかした人生はとっ散らかしたままだと。なるほどなぁ、と思いました。

キリスト者の生き方も、信仰も、聖書のことも、頭で分かっていて、「知識」のレベルでは十分に理解している私たちなのかもしれませんけれども、しかし多くの場合、それがなかなか「意識」のレベルに下りない。

そうして示された言葉が、ハガイ書の1章の5節、7節に出て来ます「あなたがたの歩みをよく考えよ。」「よく考えよ」というのは、意識のレベルに下ろしてみろ、ということです。

ハガイ書の背景をお話ししますけれども、「よく考えてみよ」という言葉。「万軍の【主】はこう言われる」というのは、神さまの声をよく聞いてごらんなさい。神さまは「あなたがたの歩みをよく考えよ」という風に仰っておられる。

簡単に3つのポイントでお話をいたします。

先ず第1番目に―


1)ハガイ書の状況

(ハガイの置かれている、 また人々の置かれている状況)

Temples Solomon

イスラエルの人々は神に背き、偶像に仕えるようになり、そしてとうとうバビロンという帝国によって滅ぼされてしまいました。それが紀元前586年です。

人々はみな遠くバビロンに捕囚に捕られ、神殿は焼かれ、エルサレムの城壁は崩され、そのようにして70年が経過いたします。

その70年の間に、また中東の情勢が大きく変化いたしました。今度はペルシャ帝国――今のイランです――ペルシャが勢力を拡大し、そしてバビロン――これは今のイラクです――バビロンを滅ぼしてしまいます。新しく台頭してきたペルシャ帝国のキュロス王の心を神さまは動かされました。エズラ記の1章の1節に記されています。なかなか開かないところなので、ちょっとこの際ですから、読んでおきましょう。

ここに政治的な状況が書いてあります。大きく政治の状況が変化し、そしてイスラエルの捕囚が終わるのですが、1章の1節から、私の方で読んでいきます。




1 ペルシアの王キュロスの第一年に、エレミヤによって告げられた【主】のことばが成就するために、【主】はペ

ルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた。王は王国中に通達を出し、また文書にもした。

2 「ペルシアの王キュロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方が、

ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。

3 あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神がともにいてくださるように。

その者はユダにあるエルサレムに上り、

イスラエルの神、【主】の宮を建てるようにせよ。

この方はエルサレムにおられる神である。

(エズラ 1:1~3)



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という風に、エズラ書は捕囚に捕られていたイスラエルの人々が、エルサレムに帰還するきっかけを記しています。70年ぶりに故郷に戻り、最初に帰還した人々は――エズラ書の 2 章に書いてありますけれども、人数として――約5万人でありました。キュロスは帰還を許しただけではなく、エルサレムの神殿の再建を命じました。ところがそんなに簡単にはいきません。紀元前536年に神殿の基礎が完成いたしました。しかし、再建事業はそこでストップしてしまいます。理由は様々ありました。神殿を再建し、勢力が拡大することを恐れた周辺民族が妨害したということもありますし、このことを発令したキュロス王が戦死し、一時ユダヤ人の帰還が中止されたという出来事もありました。キュロスの息子カンビュセスはエジプト制圧のために、いつも軍隊をパレスチナに通過させ、ユダヤ人の生活を逼迫したという現実がありました。こうしてイスラエルの人々、ユダヤ人は力を失い、神殿の再建を諦めてしまいました。

土台は出来上がった。しかしそれから

神殿を造ることを諦めてしまった敗北感

というものが、18年もの彼らを包みます。

これは、私たちの人生にも往々にしてあります。

昨年の元旦礼拝で、ピリピ1章の6節 ――

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、

キリスト・イエスの日が来るまでにそれを

完成させてくださると、私たちは確信しています。


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良き働きが始められ、やがてそれが完成に至るそのプロセスの中で、どれほど私たちは挫折を味わうかです。完成への道は簡単でもなければ、単純でもない。土台だけ造って18年間建設が中断された神殿のように、私たちの信仰生活もほっぽらかしになるということが往々にしてあるんです。「キリストの心を心とせよ」(ピリピ2:6文語訳)というその崇高な志も、きちんとした教会生活も、いつの間にか失望の雲に取り囲まれてしまう、ということが往々にしてある。それがハガイ書が私たちに語りかけて来るみことばです。

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神さまが「あなたがたの現状をよく考えよ」と言われるのは、新改訳聖書第3版の訳です。今の訳は少し変わりまして、「あなたがたの歩みをよく考えよ」です。ハガイ書というのは、神さまが預言者ハガイを通して、そのような敗北感に包まれた民と指導者に語られた言葉が記されています。もう一度、ハガイ書の1章の1節を見ていただきますと、

ダレイオス王(以前の訳では、ダリヨス。旧約聖書の名前は、新改訳2017から教科書で使われている名前に全部統一されました。ダレイオスというのは、キュロスから数えて三代目のペルシアの王です)の第二年の第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、ユダの総督ゼルバベルと、大祭司ヨシュアに、【主】のことばがあった。(ハガイ1:1)

この二人が、(ユダにあって)帰還の民の指導的な立場にいました。ゼルバベルは行政の指導者、

     そしてヨシュアは信仰の指導者であります。


そしてこの二人に加えて、民全体に預言者ハガイが語り始めます。つまり、土台を造っただけで諦めてしまった民に、そして帰還はしたものの失望に包まれてしまった民に、様々な妨害と難題に押しつぶされていた民に、それでも信仰生活を続けて来た私たちに、神は改めて語られる、というのがハガイ書なのです。


2)語りかけは神さまの迫り――

  「あなたがたの歩みをよく考えよ。」

 先程、一番最初に申し上げました――「あなたがたの知識にあるものを意識に下ろしなさい」 とは

あなたがたの歩みをよく考えよ。」(新改訳2017)です。以前の訳ですと、「あなたがたの現状をよく考えよ。」(第3版)へブル語の通りに訳しますと、「あなたがたは、自分の歩む道に心を留めよ」です。


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「自分の歩む道」というのは、あなたがたの現状、今の自分に心を留めよ、ということです。神さまが私たちにお見せになりたかったことは、2つありました。一つは、現状そのものです。1章の6節を読みます。

 多くの種を蒔いても収穫はわずか。食べても満ち足りることがなく、飲んでも酔うことがなく、

衣を着ても温まることがない。金を稼ぐ者が稼いでも、穴の開いた袋に入れるだけ。(ハガイ1:6)

これは人生の、物質面のことも精神面のことも、

つまり生活面のことも信仰面のことも

語られていると見てください。

多くの種を蒔いても収穫はわずかしかない。

沢山食べても満ち足りない。

一生懸命主のために奉仕をしても、まるで穴の開いた袋に入れるようなものだ。

それが、時にして私たちの日常の現状であり、それがハガイ書が語る民のすべてでありました。


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神さまがお見せになりたいのは、もう一つあります。

それは、そうなってしまった原因ですね。

原因は、9節の最後に書いてあります。

最後の二行を読みましょう。

あなたがたがそれぞれ、

自分の家のために走り回っていたからだ。

自分の安楽、自分の安定のために走り回っているからだ。勿論その結果、神殿建設は18年放置されるわけです。神の宮を建てることはあまりにも大変だった。だからまず自分の家を建てよう。発想として何ら不信仰なことではありません。なぜなら、自分の家を建てることも神の家を建てることも両方とも大切だからです。しかし問題の中心は、神さまのことを後回しにして、自分の課題をいつも優先してきた、段々そうするようになって来たということでしょう。民みんなの心が、神さまのことを後回しにして、「自分の家のために走り回って来た18年というもの」これは少し、考えさせられます。


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「まず神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。

そうすれば、これらのものはすべて――生活に必要なものはすべて――神さまが加えてくださる。

(マタイ6:33)」

自分の家のために走り回るのは悪いことではない。

でも第一に、神の国と神の義を求めなさい。

当然一生懸命頑張っているんです。

しかし、いつの間にか、神さまのことを後回しにしている、というあなたの人生をよく考えてみなさい。

そういう歩みに目を留めてごらんなさい。

もしや、あなたはわたしのことをいつも後回しにしてきたのではないか?という神さまの問いかけを、ハガイは指導者と民に語ったのです。それは知識が意識に下りて来たということです。その時に行動が求められます。

8節を見てください。一緒に読んでみませんか?

山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。

そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す。

――【主】は言われる――(ハガイ1:8)



Jesus Christ Illustration

神さまの声ですよね。

これはハガイにも直接聞こえて来て、それを聞いている民の耳にも直接聞こえて来る、神さまの声「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ」というのは、こういうことです。

「よく考えてみよ、あなたの人生を、あなたの信仰を、あなたの救いを。キリスト者としての生き方を、信仰生活を、よく考えて見なさい。

あなたの現状を、将来を、あなたの健康を、あなたの家庭を、あなたの仕事を、あなたの今年を、よく考えてみなさい。」

こう言われた時に、私たちはじっと考えることを

求められているのではないのです。

頭を使って考えることが求められるのではない。

もうすでに分かっていることを、

たましいの深い所に下ろして、それを

行動に移すことが求められています。


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聖書を日常的に読む。キリスト教の信仰に生きる。

ことある度に祈る。神を礼拝することを第一とする。

いや、それだけではないのです。

学生であれば、勉強する。社会人であれば、きちっと働く。家庭を持っていたら、家庭を大切にする。時間にルーズであったら、時間を守る。

私たちが日常なす小さな決断、その決断を決断としておかないで、実行する。

しかも自分の家のため、自分のために走り回るのではなく、もっと根本的に霊的なことを考える、霊的なことのために行動を起こす信仰者となる。

つまり、「知識を意識に下ろし、下りた時にそれが行動になるように」という風に、神は私たちに語りかけておられるんですね。

私は、この聖書の箇所を読みながら、有名な話を思い出し、考えました。――古代ギリシャでは、修辞学、弁論術というものを大変研究したのですが、非常に民衆の間で人気のあった、二人の雄弁な弁論家がいました。


一人はローマのキケロ(紀元前106年~紀元前43年)。詩や戯曲も書いていますが、キケロが語ると、人々の心は動くといわれていました。


もう一人、ギリシャのデモステネス(紀元前384~紀元前322)という人物がいます。

デモステネス――インターネットで調べていただくとわかるのですが――彼も雄弁な弁論家でありました。

この二人についてはこう言われています。


「ローマのキケロが語ると、その雄弁さに人は

酔った。しかしギリシャのデモステネスが語ると、

民は『さぁ、敵を倒しに出陣しよう』

と心動かされ、行動に出た。」


つまり二人の語りの違いは

  明確であったようですね。


Demosthenes Stamp

この元旦礼拝が、2020年、皆さんにとって最初の礼拝です。

私(藤本牧師)にとっては最初の説教です。

もし、私が語る者であるとしたならば、私が語っていることが、キケロのように聴いている人の心を楽しませるものなのか?

それとも、聴いている皆さんの心を動かし、勇気と行動を語りかける、駆り立てる語りになっているのか?

そう考えますと、私はキケロでもないし、デモステネスでもないように思えるのです。

私が語ったことによって、聴いている皆さんが行動に移してくださる、そのようなことが果たしてできるんだろうか?と思ってしまうのですね。


そこで第3番目、

この言葉が出てまいります。


Bible in a Bed of Flowers

3)ハガイの語り


   ――ハガイの説得ではなく、「神の声」が記

   されています。人々は「神の声」を聞きます。


13【主】の使者ハガイは【主】の使命を受けて、民にこう言った。「わたしは、あなたがたとともにいる

――【主】のことば。」

14【主】がシェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と、民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の【主】の宮に行き、仕事に取りかかった。


つまり、究極的には――いいですか?

――「知識を意識に下ろした」のが、

ハガイが語った言葉だったのでしょう。


Continuous line drawing of Christian prayer, vector illustration.

けれども「意識に下りたものが行動となった」のは、――「聖霊」がゼルバべルとヨシュア、そして民のすべての霊を奮い立たせたので――彼らは仕事に取りかかることができたのです。


どういうことかと言いますと、

私たちがどんなに決断しても、どんなに考えても、どんなに反省しても、それが行動に移っていくということは、なかなか難しいのです。

難しいだけでなく、私たちはもう少し謙虚に「それは無理だ」というところに、考えを落ち着かせたた方がいいのかもしれません。


しかし、「聖霊」が私たちの霊を奮い立たせるなら、18年間信仰を立て上げることを放置して来た私たちが、今年もう一度初心に返り、今年もう一度情熱を取り戻し、――信仰生活の様々な側面だけでなく、自分の健康のことも自分の家族のことも、自分の人生のことも、


もう少しきちんと心を留めて――

すべきことを実行に移すことができる。

それは主が私たちと共におられるからです。


13【主】の使者ハガイは【主】の使命を受けて、民にこう言った。「わたしは、あなたがたとともにいる――【主】のことば。」


最後は神さまが私と共におられ、「神の霊」が私たちの霊を奮い立たせてくださるので、私たちは仕事に取りかかることができる。


「主の霊」がわたしたちの霊を奮い立たせてくださるので、私たちは実行に移すことができる。


私たちの反省と思い巡らしが、

力を発揮したのではないのです。

ハガイの雄弁さが、

力を発揮したのでもないのです。


Continuous line drawing of Christian prayer, vector illustration.

その思いをもって、今朝、共に聖餐にあずかり、

インターネット(で礼拝の動画)をごらんになっている方々も、共に聖餐にあずかり、

そして私たちは

「知識を意識に下ろし、意識にあるものを行動に移す」一年となることができたら感謝だと思います。


Holy Communion Objects

お祈り

藤本 満 牧師

天の神さま、

私たちは今から、主イエス・キリストの命じられた

聖餐の礼典にあずかり、

主イエスが受けられた私たちのためのみ苦しみを覚え、新しい信仰を抱いて、新しい年を出発しようとしています。


いま聖霊の光が私たちの霊を奮い立たせ、

私たちが自分の道を思い巡らし、

反省すべき点があったら反省し、決

断すべき点があったら決断し、

のみならず、奮い立った霊が

それを実行に移すことができるように、

特別な霊の糧として

この聖餐を用いてください。

どうか私たちが主の再臨の日まで心を傾けて、

福音のために尽くすことができるように

力を与えてください。

主イエス・キリストの御名によって

お祈りいたします。

アーメン。
















Grape Wine Communion Sacrament Alcohol Icon
2020 1 5

ハガイ書


主は明日を力づけてくださる

Love Heart with Hands

ハガイ書2:1~23

新年にハガイ書というめったに開かない書物を開きました。元旦礼拝で、特別目を留めていただきたかった言葉があります。ハガイ書の1章を開いてください。

5節にこう出て来ます。

 今、万軍の【主】はこう言われる。

    「あなたがたの歩みをよく考えよ。」 

昔の訳ですと、「あなたがたの現状をよく考えよ」 7節にもう一回出て来ます。

 万軍の【主】はこう言われる。

    「あなたがたの歩みをよく考えよ。」

その歩みというのは、9節の最後に出て来ますが

あなたがたがそれぞれ、

    自分の家のために走り回っていたからだ。

霊的なことを全部なおざりにして、ま、実際に言いますと、このハガイ書に出てくる人々は、神殿建設を任された人々です。しかし基礎だけ据えて、建物は18年間建てられることはありませんでした。


その間、自分の家も神殿も建てなければいけないわけですけれども、自然と神さまのことは放置されて、だんだん自分自身のことばかりに心が向くようになります。

その結果として、神さまの祝福は離れていきます。そういう意味を込めて、「あなたがたの歩みをよく考えてみなさい」でありました。


私が(藤本牧師)が引用しましたのは、去年の秋にお迎えした、お片付けの専門家:井田典子さんが講演の最初で仰ったことからなのですが


「家を片づけなければいけない。時間を整理しなければ、心を整理しなければいけない。そういったことは、みなさんもう分かっている。

 その知識をどういう風にしたら、意識に下ろすか?

 どういう風にしたら、自分の意識として、

 たましいの問題として捉えて、実行に移すか?」



私はあの講演から、この聖書のことばが頭から離れないようになりました。

しかし実際のところ、誰から説得されても説明されても、どんな講演を受けても、「あの講演を聞いた次の日から片づけを始めたか?」と問われれば、私を含めまして全然始めていない(笑)。「講演は何だったのか?」というくらいに、整理とは程遠い生活をしているではありませんか。

そこで、やはりこの言葉というのは大きいのだと思いました。それがハガイ書の1章の14節です。この御言葉を私たちは今年の教会の聖句といたしました。

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ハガイ1 14

【主】が、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と、民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の【主】の宮に行き、仕事に取りかかった。




私たちは2020年という仕事に取りかかろうとしています。しかし「仕事に取りかかる」という大きな大きなハードルに向かって行こうとする時に、ひと言で言えば「明日に向かって行こう」とする時に、私たちは自分の決断や、自分の判断、自分の意欲だけでは到底為すことができないことを、「主の霊」が、「聖霊が私たちを奮い立たせる」ことによって、可能としてくださる。最終的にはもちろん「知識を意識に下ろす」ことは大切です。けれども、意識が行動へと進むためには、「主の霊によって奮い立つ」ということはとっても大切です。受験生でしたらCMでどんなに「今でしょ」(笑)と言われても、「今」はすぐに過ぎてしまうわけですよね。私たちは信仰生活の基礎、神殿の基礎というものを建てて、主からいただいて、しかし18年間、神殿建設を放って来たように、いつの間にか自分の家のことばかりに走り回って、何にも霊的な建物の構築をして来なかったという現実、私はこれは誰にでも当てはまると思います。

今日は(ハガイ書)2章を見ていただきますが、この2章の問題と言うのは、4節を見てください――

しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。

――【主】のことば――

エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。

――【主】のことば――仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。

――万軍の【主】のことば――

                   (ハガイ2:4)

―【主】のことば―というのは、神さまの声ですね。

「強くあれ」が3回出てきますが、「行政指導者、宗教指導者、この国のすべての民よ、強くあれ」ということです。なかなか取りかかることができない、最大の障害は

一体何だったのだろうか?私たちの信仰生活の戦いでも

敗北して行く最大の原因は何か?

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それは恐れることです。

勇気を失ってしまうことですね。

もう少し複雑な言い方をしますと、

敗北が問題なのではないのです。

「敗北感」が問題なのです。

「敗北感」「絶望感」というのは、私たちを惨めにします。私たちはそのような敗北感に浸っていますので、

信仰の目を上げて神を見ることもせず、神から力を得ることもせず、私たちは「ああ、だめだった」というその中で沈み込んでいってしまいます。

ハガイ書に出て来る人々は、18年前に神殿の基礎を建て上げた時に、それ以上前に進むことができませんでした。せっかく基礎を造り上げた彼らを包んだのは、敗北ではない。神殿の基礎は完成したわけですから。

しかし完成した神殿の基礎を見て、彼らは「敗北感」に浸りました。


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なぜなら、その神殿の基礎は以前のソロモンの神殿に比べますと、その半分のサイズにも至らないわけですね。

……エズラ書3章10節からちょっと読んでいきます。

ここに神殿完成の時の様子が出てまいります。

10 建築する者たちが【主】の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって【主】を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。

11 そして彼らは【主】を賛美し、感謝しながら

「主はまことにいつくしみ深い。

その恵みはとこしえまでもイスラエルに」

と歌い交した。こうして、【主】の宮の礎が据えられたので、民はみな【主】を賛美して大声で叫んだ。

12 しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。

    (エズラ記3:10~12)

と書いてあります。つまり、以前の宮があまりにも大きかった。それに比べて、今自分たちが為している建設があまりにも小さい。基礎が小さいということは、

そこにどんなに立派な建物が建てられたとしても、

所詮小さなものしかできない。

それで彼らは泣いたわけですね。

つまり一番最初から「敗北感」

というものが、彼らを包んでいました。

さて、ハガイ書に戻っていただいて、2章の2節と3節を見ていきますが、まず3節の最後の三行を見てください。

あなたがたは今、これをどう見ているのか。

あなたがたの目には、

まるで無いに等しいのではないか。


これは、神殿の基礎のことです。

「あなたがたは今、これをどう見ているのか」というのは、「これをどう考えているのか?」と同じです。


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Aztec Temple Silhouette

自分にとっての2020年、自分にとってのこれからの人生、自分にとっての現状というものを、あなたはどう見ているのか?

もう若くはないかも知れない。

以前のような勢いはないかも知れない。

勿論以前なかったものが今あるのでしょうけれども。

しかし私たちは往々にして、以前これ程のものを持っていたのに、今はこれだけしかないという現状に直面した時に、敗北ではなくして「敗北感」にとらわれてしまいます。彼らは奮い立って、五万人の力を結集して神殿の基礎を完成したにもかかわらず、既に「敗北感」が一番上の長老たちの心を包んでいました。

ですから神殿建設は中断するであろうということは、最初から目に見えていたわけです。


元旦で見ていただいたのは、先ほど申しましたハガイ書の1章5節と7節にあります「よく考えよ」

「あなたがたの歩みを(※現状を)よく考えよ。」


信仰の情熱がいつの間にか消え去り、信仰生活をほとんどほっぽらかしにし、自分の信仰の力を失ってしまったその姿をよく考えよ。

基礎は据えられているのに、その上に神殿を建てようともしない。むしろ日常のことに追い回されているあなたの人生を考えてみよ。

「種を蒔くけれども収穫はわずかで、稼いでも穴の開いた袋に金を入れている」(6節)ような「あなたの歩みをよく考えよ」ということばが1章に出てまいります。

結局のところ、神さまのことを後回しにして、自分の課題をいつも優先して来た。

自分の家のために走り回って来たがゆえに、今の自分がある。

そのことをよく考えてみなさい。

こうして知識を意識に下ろし――つまり頭の中にあることをたましいに下ろし、そして最終的に求められているのは、(ハガイ)1章の8節にありますように、

  山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。……


「登り、運んで来て、宮を建てよ」という、この実際の

行動に、あなたは移って行きなさい。

しかし最初申し上げましたように、結局私たちはみな弱い存在ですから人の説得でどうかなるわけではないのです。

そこで神さまが

「聖霊によって、私たちの心を奮い立たせてくださる」。

 それが今年の(高津教会の年頭の)御言葉ですね。


さて、前置きが長くなりましたが、短く3つのポイントから。(鍵となることばがあるとしたら)2章に出て来ますが、「今日から後のことを考えよ」で、

3つお話をいたします。


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1)ハガイの語り

  

というのは、2章の18節に出てまいります。

 さあ、あなたがたは 

今日から後のことをよく考えよ。

15節にも出て来ます。

 さあ今、あなたがたは、

 今日から後のことをよく考えよ。

「今日から後のこと」というのは

18節(後半)にありますように、

 第九の月の二十四日、

【主】の神殿の基が据えられた日から

後のことをよく考えよ。

なんですね。

基礎を据えられるまでこぎつけることができたではないか。そこで敗北感に浸ってないで、これから先のことを考えよ。なぜなら――6−9節をご覧ください。

Foundation Icon

6 まことに、万軍の【主】はこう言われる。

「間もなく、もう一度、

わたしは天と地、海と陸を揺り動かす。

7 わたしはすべての国々を揺り動かす。

すべての国々の宝物がもたらされ、

わたしはこの宮を栄光で満たす。

【――万軍の【主】は言われる――】

                


だから、【主】は言われるわけです。

【主】は言われる、というのは何度も出て来ますけれども、預言者ハガイは「神の声」を聞いているわけです。

そして訴えている。あなたがたにもその声は聞こえます

よね?その声を信じますよね?

8 銀はわたしのもの。金もわたしのもの。

――万軍の【主】のことば――

9 この宮のこれから後の栄光は、

先のものにまさる。

 【――万軍の【主】は言われる――】


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「この宮のこれから後の栄光は、

           先のものにまさる。」

ここに、聖書で有名な、感動的なことばが出て来るわけです。いいですか。よくここを考えてくださいね。

神殿の規模、神殿の大きさというのは、もう優らないんです。つまり完成した時に、以前の神殿よりもはるかに小さな、小振りなものになることは明らかなのです。でも神さまは、「建物のサイズなんてものには、わたしは全くこだわっていない。必要なものがあるなら、銀はわたしのもの、金もわたしのもの。わたしはそもそもあなたがたの財力にさえも期待していない」

(と言われる。)

神さまが期待しておられるのは、

わたしたちの能力ではない。

神ご自身に期待すること。

「敗北感」からいつも抜け出して、

神さまに信頼することです。

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今日から後のことを考えよ。

わたし自身が地を動かし、国々を揺り動かし、先にまさる栄光で(この宮を満たす)。

あなたがたが造る小さな神殿、小さな事業、小さな成果――小さいかも知れない。

  規模は以前より小さいかも知れない。

しかしわたしは、以前よりまさる栄光でそれを満たす、

というのが約束です。

神の栄光は建物のサイズには関係ありません。

豪華な大理石や金銀の器や、そんなことに

関わっているのではないのです。

もし、あなたがたが再び信仰を奮い立たせ、

わたしについて来るなら、わたしはあなたの一年を、

これから後のあなたの人生をさらに豊かな栄光で満たそう

――これは正直、

     すばらしい約束としか言いようがありません。


Rustic Organic Flower

私たちは年齢と共に老いていきます。できることは段々限られていきます。そうすると、自然に私たちは 

          「あ、これもできなくなった。  

           これも失った」という方向に 

          思いがいくでしょう。

          私たちの仕事もそうです。

       例えば一人であるならば、これだけのことができた。結婚することによって、その幾分かを奪われた。子どもができたらさらに奪われる。

私たちは自分のこの器の大きさ(神殿の大きさ)で、なんだかこう敗北感を感じるんですけれども、

 神さまが最初から(言われるのは)――

「あなたの能力、あなたの事業の規模なんかには、

わたしは関心はない。

必要があれば、大地を、国を揺り動かし、わたしはあなたの人生に必要なものを満たす。

Flower with Heart

何よりも、出来上がる神殿の規模が小さかったとしても、わたしはそこに以前にまさる栄光を満たすことができる(のだから)」ということです。

先ほど言いましたが(ハガイ2章)4節に、「強くあれ」

という言葉が3回出て来ますね。

行政指導者、宗教指導者、民すべて、強くあれ、です。

「敗北感」にとらわれるな。


元旦礼拝で申し上げました。

Mさんが、年末辞令を受けて、東京勤務から静岡勤務に

変わりました。今日もインターネットで礼拝を守っておら

れるでしょう。

年末の慌ただしい中、荷物をまとめて引っ越し、

そして多分明日からでしょうね、

月曜日をもって新しく仕事が変わって

行きます。

凄い大きな課題だと思います。


Office accessories in cardboard box. Working stuff, document

今年私たちも、まだ予想もしていない沢山の課題があります。仕事かもしれませんし、突然自分の健康がくずれてしまうことかもしれませんし、皆さんの勉強のことかもしれませんし、「敗北感」と言わないまでも、恐れのゆえに、手をこまねいて待っているというのはダメだと。神さまが仰った言葉は――「仕事に取りかかれ」です。

そうやって奮い立つ根拠が示されています。

先ほど申し上げました、(ハガイ書2章)4節の最後に――

4 仕事に取りかかれ。

わたしがあなたがたとともにいるからだ。

(――万軍の【主】のことば――)


これが二番目のポイントです。

「仕事に取りかかれ。

わたしがあなたがたとともにいるからだ。」


Camel and Ice in Tabuk, Saudi Arabia

5節をみてください。


5 あなたがたがエジプトから出て来たとき、

わたしがあなたがたと結んだ契約により、

わたしの霊はあなたがたの間に

とどまっている。 (恐れるな。』)


これは何百年も前の出来事なのです。

出エジプト(の出来事)は。

けれども出エジプトの時に、モーセを間にして結ばれた

神の契約は、民から離れていない。

民はその契約を破り、バビロンに捕囚に捕られました。

しかし神さまは、離れていない。

もしあなたがたがよく考えて、きちっと自分の人生の

優先順位を整え、わたしを信頼するなら、「わたしの

霊はあなたがたの間にとどまっている」という。

(神さまの憐れみ深い真実です)。


Woman Riding Camel Illustration

(ちょっと乱暴な言い方をしますと、神さまは神殿にはこだわっていない、と言いますか、

別に大きな神殿、立派な神殿、神のための大事業、そんなことにこだわっていない。)


神さまがこだわっていることがあるんです。

それは、ご自身の真実さをよそに、何百年も続いているご自身の真実さをよそに、

日常生活の必要に、人生の敗北感にとらわれて、右往左往している私たち(の人生のこと)です。


神殿建設であろうが何であろうが、神さまは壮大なご計画を持っておられて、私たちの人生を動かしておられます。

その真実な方の守りを、導きを、助けを忘れて、日々の自分のことにとらわれ、一向に前進しないと言いますか、一向に成長しない私たちに、神さまはこだわっておられる。


「大丈夫。わたしの霊はあなたの上にとどまっている」


目に見えない信仰が試されている。

神殿の大きさではない。より多くの、より輝く栄光で満たしてくださる神さまの約束を、

信じる信仰が試されているわけですね。


2章の18節、19節を見ていただきたいと思います――


18 さあ、あなたがたは 

今日から後のことをよく考えよ。

第九の月の二十四日、

【主】の神殿の基が据えられた日から

後のことをよく考えよ。

19 種はまだ穀物倉にあるのか。

ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、

オリーブの木は、まだ実を結ばないのか。

今日から後、わたしは祝福する。」

Plant of Olive

3)「これから後」「これから後の祝福」


まだ結んでいない。まだ穀物倉には種はない。

でも「今日から後、わたしは祝福する。それらを備える」と、神さまは仰っておられるわけですね。

さて、最後に小さなことと言いますか、大きなことに目を留めて終わりにしますが、


「これから後」「これから後の祝福」と言った時に、一つ考えておくべきことがあるんです。

それは、2章の20節からこのように始まりますが――

20その月の二十四日、ハガイに再び次のような【主】のことばがあった。

21「ユダの総督ゼルバベルに次のように言え。

『わたしは天と地を揺り動かし、

22 もろもろの王国の王座を倒し、

異邦の民の王国の力を滅ぼし尽くし、

戦車とその乗り手をくつがえす。

馬とその乗り手は味方の剣によって倒れる。



23 その日、

――万軍の【主】のことば――

シェアルティエルの子、

わたしのしもべゼルバベルよ、

――【主】のことば――

わたしはあなたを選んで印章とする。

わたしがあなたを選んだからだ。

――万軍の【主】のことば。』」


次回、一緒に学んでいただきますゼカリヤ書というのは、今回のハガイ書の続きで、神殿建設の大事業を担うゼルバベルが出て来ます。

神さまはここで、ゼルバベルを選んで、「わたしはあなたを印章とした」(23節)とおっしゃいます。

「印章」というのは、約束手形みたいなものです。

「約束の保証」として存在している「しるし」ですね。

それが古代にあって、文章というよりは何か形を持ったものだったんだろうと思うのです。


Yellow Floral Botanical Corner Border Frame Element Autumn Themed Linocut Stamp
important, stamp

鍵であったり、あるいは特別な彫り物であったり、それが「約束のしるし」であった。

ゼルバベルは、「神の約束が実現するところのしるし」とされたわけですね。

新約聖書に、このゼルバベルという言葉(名前)が

一回だけ出て来ます。

この人名が一体どこに出て来るかと言うと、

イエス・キリストの系図に出て来るんです。

マタイの福音書の1章に出てきますので、ちょっと聞いてくださいね。

12バビロン捕囚の後、エコンヤがシェアルティエルを生み、シェアルティエルがゼルバベルを生み、

13ゼルバベルがアビウデを生み、アビウデがエルヤキムを生み、エルヤキムがアゾルを生み、

・・・・・・・・・・・・・

16ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。

最終的には、「もろもろの王国の王座をくつがえし、戦車とそれに乗る者をくつがえす」と約束されたお方というのは、キリストでありまして、

キリストは罪と死の鎖を引きちぎり、その支配をくつがえし、これから後、世界をくつがえされる。

その間、主は私たちの悲しみも、苦悩も、疲れも、傷もくつがえしてくださり、私たちを解き放ち、不安から平安へ、恐れから勇気へ、私たちを祝福してくださる。


その「祝福の保証のしるし」は、あなたのものだ、と

ハガイ書は約束しているんです。

その「しるし」を、あなたがたは持っているだろう。

その「しるし」を見た時に、その「印章」を見た時に、

「神さまが約束してくださっているすべての恵みはあなたのものだ」ということを心から信じて、

「さあ、立ち上がり、仕事に取り掛かれ」

というのがハガイ書なんです。

Continuous line drawing of Christian prayer, vector illustration.

私たちの前に立ち塞がっている課題、そんなものは「ローマの道は一日にしてならず」ではありませんけれども、そう簡単にどうにかなることではない。

けれども逆に言うならば、「敗北感」にとらわれる必要はない。「わたしはあなたから離れてはいない。とどまっている。わたしはあなたとともにいるではないか」という、この「約束のしるし」を私たちは持っています。肌身離さず、イエス・キリストを大切に「約束の保証」として身に着ける者でありたいと思います。


恵み深い天の父なる神さま、

受験生にとりまして、

また結婚を前にした人々にとりまして

お祈り

藤本 満 牧師

明日仕事場に帰って行く者たちにとりまして、

あなたからいただくところの勇気が

どれほど大きな意味を持っていることでしょう。

あなたが私たちの心を奮い立たせてくださらなければ、

当然「敗北感」に包まれても仕方がない状況が

私たちの周りに広がっているはずです。

すでに神殿の規模は信じられない程小さく、

そこにどんなに大きなものを建てたとしても、

大したことがないような2020年なのかもしれません。

しかしあなたに信頼するなら、あなたはさらに大きな栄光をもって、そのあなたの事業を満たしてくださると約束してくださった、その保証がイエス・キリストであり、私たちはその保証を、印章を肌身離さず、この身に刻み持っていることを決して忘れることがありませんように。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

アーメン。

2020 1 19

ゼカリヤ書

1

神の怒りと神の愛

Love Heart with Hands

ゼカリヤ書1:1~17

さて、玄関のロビーの所に「Mさんの書、そしてWさんの作られた」聖書(旧約)のハガイ書の言葉(が入った栞)が置いてあります。

ハガイ書というのは、なかなか私たちは開かないんですが、1章の14節のみことばのこの部分を、今年の聖句といたしました。ちょっと読んでいきます。

Winter Floral Frame
ハガイ1 14
Rounded Rectangle Button 1

【主】が、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と、民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の【主】の宮に行き、仕事に取りかかった。




「神さまは、私たちの霊を奮い立たせて、2020年へと向かわせてくださる」という意味で、この聖書の箇所を取りました。前回もお話ししましたが、この聖句の論理は物凄く大切なんです。

ハガイ書の1章には「よく考えよ」という鍵の聖句が

二回出てきます。

「よく考えよ」(ハガイ1:5と1:7 以前の訳では「あなたがたの現状をよく考えよ」ですが、今の訳では「あなたがたの歩みをよく考えよ」。つまり、ハガイ書が記された状況から考えますと――信仰の情熱がいつの間にか消え去り、信仰生活をほっぽらかしにして、自分の信仰の力を失ってしまった、その姿をよく考えてみなさい。

神殿の基礎は据えられ、でもその上に神殿は一向に建たないで18年が経過し、むしろみんな日常のことに追い回されている、あなたの人生をよく考えてみよ。

それが今年のみことばなんです。







そして次の聖日(初聖日・1/5)にはハガイ書の2章を見ていただきました。2章の鍵の言葉は「今日から後のことを考えよ」です。 「今のあなたの歩みを考えよ」(ハガイ1:5と7)ではなく、

「今日から後のことを考えよ」(ハガイ2:15と18)。

神さまはしばらくすれば、天と地、海と陸を、そして国々を揺り動かされる。バビロン捕囚から帰って来て、彼らが建てた神殿の基礎がどんなに見劣りして、どんなにちっぽけなものであったとしても、「わたしはこの世界を揺り動かして、あなたを祝福する」と仰った時に、2章の9節です。神さまはこう仰いました。


Winter Floral Frame
Rounded Rectangle Button 1
ハガイ1 14

【主】が、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と、民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の【主】の宮に行き、仕事に取りかかった。




この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる。

…… (ハガイ2:9)

神殿の土台は先の神殿よりも小さいものかもしれない。私たちの人生で言えば「私たちの仕事であろうが、私たちの重荷であろうが、先に抱えていた重荷・課題よりも、はるかに小さいものと私たちは取り組むことになるのかもしれない。しかしその中に満ちる主の栄光は、先のものにまさる。だからこれから後のことを考えよ」と(神さまは)仰いました。そして(ハガイ2章)4節に戻って、先ほどの3者にあった主のことば

ユダの総督ゼルバベル、大祭司ヨシュア、

この国のすべての民よ――

「強くあれ。そして、仕事に取りかかれ。

わたしがあなたがたとともにいるからだ。」

5節には、「わたしの霊はあなたがたの間に

とどまっている」なのです。




Jesus Christ Illustration

この論理というのは、ものすごく大切です。

1章の論理は「あなたがたの今をよく考えてみよ」

そして自分はこういうことをしなければいけない、ということはよく知っているんだとしたら、それを意識に落として行動に移してごらん。でも「その行動に難しさ」を覚える。しかし、「神は天から霊を注いであなたがたに力を与える」。

2章(の論理)は、「これから先のことを考えてみよ」

とはいえ、なかなか先のことを考えられません。

なぜなら、自分たちが据えた神殿の基があまりにも小さくて、自分たちは「敗北感に包まれ」前に進むことができないからです。しかし、「神さまは約束」してくださいました。どんなに土台が小さくても、「わたしは先よりも、さらに多くの栄光を満たす」と。だから「強くあって、仕事に取り掛かれ」なのです。

「わたしはあなたがたとともにいる」。

「わたしの恵みはあなたがたを離れてはいない」。


これが、わずか二章しかないハガイ書の、非常に独特な、それでいて、鋭いメッセージであると思ってください。 続くゼカリヤ書から(ゼカリヤ書は14章ありますが)、

毎週1章ずつ勉強していきたいと思います。

さて、今日はゼカリヤの1章です。

ゼカリヤという預言者は、ハガイと同じ時期のもう一人の預言者でありました。

ハガイ書の1章の1節は、「ダレイオス王の第二年に、預言者ハガイを通して、【主】のことばがあった」なんです。

そしてゼカリヤ書の1章の1節を見てください。

「ダレイオスの第二年に、預言者ゼカリヤに、次のような【主】のことばがあった」。 ということは、このダレイオスというペルシャの王さまの第二年に、ハガイとそしてゼカリヤの二者に「神のことばがあった」。

それで(それぞれの書物が)記されている

わけです。1章から、非常に大切な

3つのことを目に留めたいと思います。

Book with Nature Plants

1)「万軍の【主】」ということば


これはハガイ書の2章から連続して出て来る、ということを前回申し上げました。英語ではLord of Hosts (※The Lord Almightyとあるのを見ましたが) ですけれども、「万軍の【主】」という神さまの名前は、旧約聖書全体で487回出て来ます。民数記に77回、詩篇に24、イザヤ書に70、エレミヤ書に88、いずれも大きな書物です。小さな書物であるダニエル書に6回、アモス書に8回、わずか二章しかないハガイ書に14回。特に2章に集中するんですけれども。ゼカリヤ書はものすごく多いです。全十四章ですが、53回出て来ます。旧約聖書の中で突出して多い、「万軍の【主】」というのは、いったいどういう意味なのか?それは、「万の軍を従える偉大な王」のイメージで、「その権威、その力は尋常ではない」「天の軍勢を従える神」ということでありましょう。




しかし、この言葉がハガイ書、ゼカリヤ書に

出てきますと、独特な意味があります。

なぜなら、語られているユダという国は、

中近東の小国に堕してしまっていました。

アッシリア帝国の脅威によって、

北のイスラエル王国は滅び、

サマリア人になります。

バビロン帝国の脅威を前に、

南のユダの王国も滅ぼされて

バビロンに捕囚に捕られ、

70年経って後に帰国して、

神殿の基礎は据えられたものの、

それはペルシャ王国のキュロス王の

助けがあったからです。

勿論、そのキュロス王を動かしたのは神です。

でも民は神殿の基礎だけを据えて、

18年建築を放置してしまいました。


King Merodach-Idin-Akhi Vintage Illustration

そこには歴史的な事情、あるいは彼らの抱えていた敗北感がありました。ここでペルシャの三代目の王・ダレイオスが神殿工事の再開を促した時に、またそれも自分たちの力ではないわけです。自分たちが集まって奮起して、このままではいけない、と誰も考えてもいませんでした。

ダレイオスを動かしたのは、神であります。

つまり中近東の、弱小国のユダの民に対して、神さまが語りかけた言葉が、

「万軍の【主】であるわたしは、あなたとともにいる。あなたの後ろ盾だ。あなたと

共にいる神はわたし、

万軍の【主】である」

という、そういう言葉です。

ですから53回も出て来るんです。




Vintage Decor Illustration

 私たちはいったい何者だろうかと思います。小さな小さなクリスチャンで、日本の片隅に住み、そして一生涯、モーセの祈りによれば、「その誇りとするところは労苦とわざわいだけです」(詩篇90:10)。

それはもちろん、いいことも沢山あります。しかしよく振り返ってみると、私たちはいつも、日々、毎年、労苦とわざわいと戦っているではありませんか。

私たちが信じている神は「全能の神」と言いますけれども、しかしその「全能の神」が私たちをどのようにして愛し、どのようにして面倒を看てくださるか、私たちにはさっぱりわからない時の方が多いのです。

しかしゼカリヤ書、ハガイ書に出てくるのは

――万軍の【主】はこう仰せられる。

主は、あなたの後ろ盾におられる、あなたと共におられる、あなたから離れていない、

(この)万軍の【主】のことばを考えてご覧なさい ――なのですね。


      イギリスにJ.B.フィリップスという 

        有名な聖書学者がいます。

       彼は一人で新約聖書を翻訳し、

        旧約聖書をも翻訳しました。

      彼の有名な小さな書物に

      「あなたの神は小さすぎる」という

      題名の本があります。

      Your God Is Too Small 

              ・・・小さすぎる。

ご利益信仰のように、何か自分たちの願いだけを叶えてくださり、それが叶えば、それで神さまとのつき合いは終わりであるかのように、どこか自分の人生の外にいる神。 そんな神は小さすぎる。

厳しい目つきで、私たちを見張り、私たちの人生を支配し、罪に対しては罰を、善行に対しては祝福を。

そんな神は小さすぎる。


lord Jesus Christ outline


天地を造られた神は、そんなことで目くじらを立てて、あなたを追い回すような神ではない。

試練に納得がいかなければ、信仰を捨ててしまう。

あなたの神は小さすぎる。

神は羊飼いとして、あなたを緑の牧場に伏させる時もあれば、時に死の陰の谷を共に行き、

あなたを敵の前に立たせ、

しかし、その敵の前で

あなたのために食卓を用意する

(詩篇23篇)

そういう大きな、大きな神を、

あなたはほんとに信じているのか?

というのが、J.B.フィリップスのものの言い方です。

万軍の【主】が共におられる。

この方の偉大さが強調されるばかりであるのを見てきました。



Merry Christmas shepherd and sheeps. Continuous one line drawing. Vector illustration
Merry Christmas shepherd and sheeps. Continuous one line drawing. Vector illustration

さて、ではちょっと、ハガイ書2章の5節に戻っていただきたいと思います。

これはもう新約聖書に至るまで「鍵」になるのですが

新約聖書には、ここ20年〜30年くらい

大変大きな論争があります。

(この論争のことは、また改めて

今年どこかで話したいと思っています)。

「私たちの救いに大切なのは、

私たちの信仰なのか?

神の真実なのか?」

という論争です。

「私たちの救いに大切なのは、私たちの信仰なのか?

神の真実なのか?」 旧約聖書の後ろの方へ行けば行く程、「契約」という概念で聖書の教えを考えれば考える程、私たちの神に対する信仰以上に強力なのは、神の真実なんですね。そしてそれはハガイ書の2章5節によくあらわれています。


あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、私の霊はあなたがたの間にとどまっている。恐れるな。』

…… (ハガイ2:5)

どんなに罪深い民かもしれない。

しかしわたしの霊は、あのエジプトから出て来たとき――というのはモーセを仲介者として契約を結んだその日より、ということです。何百年も前の話です(シナイ契約・出エジプト記20章)――その時以来、わたしは契約に対しては忠実にやって来た。


私たちはどこかで洗礼を受ける

かもしれません。

洗礼を受けた方もおられるでしょう。

しかしそれから先、私たちはまことに不真実であり、私たちの神に対する信仰というものは、決して大きなものとは言えないのです。




あの洗礼を受けた時の信仰の純粋さというのは、私たちの年々、私たちの日々に応じて、上がったり下がったりするものです。 ですから、最終的に何が私たちを救うのか?「私たちの主イエスに対する信仰なのか?それとも主イエスが私たちに示してくださる真実のゆえなのか?」

と問われれば、それはどう論争しようが、私たちは

(主イエスとの)新しい契約に生きている今、

古い契約と同じように、大切なのは

「神の契約に対する真実」なのです。

ですから「信仰」という時に、

「信仰から離れてしまった」という

表現もないわけではないのですが

それでも神は、一旦洗礼を受けた

私たちの信仰を忘れることはないのです。


「神の絶対的な真実の中を、私たちは生かされている」

lord Jesus Christ outline

ということを「万軍の【主】」という、その言葉を見る度に私たちは考えるべきです。つまり、「偉大な権威、甚大な力を持っておられる神がおられる」だけでなく、そのお方は「私たちに真実の真実を尽くされる」お方だというのが、「万軍の【主】」という言葉に入っています。

さて、これから先の2点が、ゼカリヤ1章の鍵になりますので、よく見ていただきたいと思います。


2)ゼカリヤ1章に記されている

     先ず第一の問 題は、神の怒りです。


2節を見てください。

2 「主はあなたがたの先祖に激しく怒った。

4 あなたがたの先祖のようであってはならない。先の預言者たちは彼らに叫んで言った。

『万軍の【主】はこう言われる。あなたがたは悪の道








と悪しきわざから立ち返れ。』 しかし、彼らはわたしに聞かず、わたしに耳を傾けもしなかった。

――【主】のことば――

…… (ゼカリヤ1:2、4)


列王記、歴代誌を見ますと、もうず~っと預言者が偶像崇拝に対して、民に警鐘を鳴らしていますよね。でもそれをどんなに何度も聞いても、彼らは神に帰ることをしないわけです。そして神は「頑なな民だ」ということで、この彼らをバビロンの手に渡してしまわれるわけです。神さまが見ておられたのは、そして旧約聖書に指摘されているのは、偶像崇拝、道徳的な退廃、社会の不品行、弱者を踏みつける社会構造。宗教家の堕落、祭司たちの政治的な役割。信仰を用いて自分たちの欲を達成しようとする祭司。それは預言者ゼカリヤも分かっていたことです。だからこそ、バビロン捕囚ということを皆、体験したわけですよね。



Illustration of Female Captives

ですから、「神さまというお方は、罪に対して厳しいお方である」というのは、(ゼカリヤ書)1章の前半に、もう既に体験したこととして、よくわかっているというメッセージです。

ところが1章の真ん中、8節は、こう始まります。

夜、私(ゼカリヤ)が見ると、なんと、一人の人が赤い馬に乗っていた。その人は、谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。そのうしろには、赤毛や栗毛や白い馬がいた。…… (ゼカリヤ1:8)


ここでゼカリヤは独特な預言を、幻を見るわけです。

そこに赤い馬に乗ったお方がおられた。

10「これらは、地を行き巡るために【主】が遣わされた者たちだ。」

11節をご覧になりますと、既に白い馬たちは全地を行き巡って来ました。









Hand Drawn Pet Horse Sketch

11節の後半に――

「私たちは地を行き巡りましたが、まさに全地は安らかで穏やかでした。」

というのは、皮肉なものの言い方で、「世界の状況は安定しています。何ら変わりはありません。大きな帝国はのさばり、弱小諸国は食い物にされたまま、全地は何の変わりもありません」という意味です。

すると、「一人の人」――これは、キリストを指すわけですけれども――が、万軍の【主】に問います。

それが12節ですね。

12 それに答えて【主】の使いは言った。「万軍の【主】よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々にあわれみを施されないのですか。あなたが憤られて七十年になります。

「この七十年間、全地は安らかで穏やかで、私たちは弱小諸国として放置されたままです」と。

「まだ怒っておられるのでしょうか? 怒りはこのままなのでしょうか?






3)すると【主】は、

  私と話していた御使いに

  恵みのことば、慰めのことばで

  答えられた。



神の民であった私たちに下された罰は、この事態はもう動かないのでしょうか? 情勢はこのままなのでしょうか?」と言うのです。すると、3番目に、怒りとは全然違う言葉を、この赤い馬に乗っていた「一人の人」は、神の言葉として語ります。13節――


 

      



いいですか?この14節の「ねたむほど激しく愛した」という言葉は、2節の「【主】はあなたがたの先祖に激しく怒った」という言葉の対局、コントラストにあります。これは両方とも独特な表現で、同根対格と言います。つまり2節の方は、ヘブル語そのものですと、動詞の「怒る」という言葉と名詞の「怒り」という言葉が合わさっているんです。










すから同じ根っこの言葉が、動詞と目的語として両方使われます。これを日本語に訳す時に、日本語では「激しく怒った」と。つまり、ある言葉の名詞と動詞が一つの文章の中で重なりますと、ヘブル語表現では強烈な表現になるのです。ですから2節の「激しく怒った」というのは、物凄く強烈な表現だと思ってください。同じように、14節の最後の「ねたむほど激しく愛した」というのも、同根対格で、いいですか?「愛する」という言葉(動詞)と、「情熱を傾ける」という動詞と「情熱」「愛」という名詞が二重に使われているんです。ですから、「激しく愛した」という風に訳されています。すると、1章というこの文章の区切りは、この最初に出てきます「激しく怒った」と、後半に出てきます「激しく愛した」という言葉が、コントラストで出てくるということがよくわかります。そしてその真ん中にゼカリヤが見た「一人の人」――イエス・キリスト――がおられるという風に考えていただきますと、文章の流れの構造が






Hand Drawn  Flame

よくわかります。つまり「怒りと裁き」が、キリストが登場されることによって、「恵みと慰め」に変わって行ったということです。しかも同じだけ強烈に、「わたしはねたむほど激しく愛する」という風に変わって行きます。

つまり、罪に対する神さまの怒りは半端ではなかったんです。それほどまでに人は罪深く、この世界は罪の中に埋もれています。そしてそれら罪に対する神さまの激しい怒りというのは、(ゼカリヤ1章の)

前半に書かれている通りで、時にこの世界に、時に私たちに、この神さまの怒りは燃え上がります。

ところが赤い馬に乗り、白い馬を従えた「一人の人」が現れた時に、全く逆の言葉を神は語られます。

「わたしは、(エルサレムとシオンを、ねたむほど)激しく愛した。(14節)15節、見ていただきますと












blue flame icon

15 しかし、わたしは大いに怒る。安逸を貪っている国々に対して。

つまり平穏無事で、何も変わらず、悪の枢軸の中で世界の均衡が保たれるような状況に対して、あるいは悪の中にどっぷりと浸かって、何ら変わらずに繁栄している者たちに対して、わたしは大いに怒る、と。

それは小さき、神を愛する私たちを、激しく愛するためである。世界を転覆させる、ということです。

つまりイスラエルの罪に対する神の怒りより、最終的にイエス・キリストが現れた時に、神の愛が勝るわけです。ずっと語って来ました。「私たちの敗北、敗北感、愚かさ、弱さ、試練の大きさ、不安、恐れ、罪深さ」それに対する「神の怒り」。

しかし「一人の人」キリストが現れると、キリストのみわざのゆえに、贖いのゆえに、十字架のゆえに、「怒りは愛に変わる」。(「激しい愛に」変わります)。








A Wooden Cross on the Ground

そして私たちは「恵みのことば」「慰めのことば」を聴く者となる。これ、一年間覚えていただきたいと思います。

時に失望に打ちひしがれ、時に自分の愚かさ、罪深さに打ちひしがれて、教会にいらっしゃるでしょう。

しかしゼカリヤと同じように、私たちは一人の方の幻を見る。この方は私たちの罪を荷われ、私たちはこの方を通して、神さまの恵みのことば、慰めのことばを聴く者と変えられて行くわけです。そういう一年でありたいです。あのトランプ大統領が大嫌いなCNNというテレビ局がありますでしょう。CNNというのは、小さな地方のテレビ局だったのですが、1990年の湾岸戦争で、カメラマンを国に残したのだそうです。そして空爆の様子を全世界に放映しました。それで一躍、世界で一番大きなニュース報道番組に成長いたしました。この創設者はテッド・ターナーという人物ですが、彼の父親は億万長者です。












ヨットや、クルーザーで遊んで、50歳で広大な土地に大邸宅を建て、財を尽くした人です。しかしそれほどの成功を収めたにもかかわらず、父親は53歳で自死をいたします。

息子のテッド・ターナーは、自分がCNNの社長に昇っていった時、そして自分の作り上げた組織が大きくなっていった時に、何となく自分と父親を重ねるようになってしまいます。もしかしたら自分もまた父親のような悲劇的な死を遂げるんじゃないだろうか、という強迫観念にとらわれて、彼は心理療法を繰り返し、沢山の薬を飲むようになります。この報道局を創ったテッド・ターナーは若い頃、宣教師を志していました。しかし20歳の時に、妹が難病に苦しむ姿を見ながら、信仰を失います。かつて自分が燃えていた聖書の確信を捨ててしまいます。そして父親のようになることに恐怖感を感じながら、父親のように死んでしまうのではないかという恐怖に怯えながら生きるような人物に変わってしまいます。








人は、私たちは信仰を捨てるということがあるんだろうか?と思います。事実あります。でもテッド・ターナーを見ているとよくわかります。彼が持っていた熱心な信仰というのは成長することがなかった。

試練の中で成長しない信仰。神さまは子どもを大人の信仰者に育てるために、私たちに試練を与えると仰ったのに、逆に試練の中で退化していく信仰というのがあるんだ。なおかつ、その信仰は、神さまのイメージと自分の父親のイメージを重ねた、《神というお方は非常に支配的で、いつも見張っていて、怒鳴り散らして厳しい要求を突きつける》そういう神である、という域から抜け出すことができなかったのでしょう。

どこかで神さまは無関心で、どこかで神さまは自分の試練よりも小さくて――

でも私たちが信ずべきは、ハガイもゼカリヤも言うのです「あなたが信じているのは万軍の主だ。その主は、あなたの試練よりもはるかに大きく、あなたの考















えよりもはるかに大いなるご計画を持っておられ、あなたを守ってくださる。そのお方は、あなたの人生の成功というものではない。あなたを永遠の御国にふさわしい人物へと整えるために、あなたを育ててくださる。そのために、夜あなたの前に『一人の人』イエス・キリストは現れなければならない。この方が現れた時に、あなたは失望、落胆、怒りの言葉から、恵みの慰めの言葉を聴く者と変えられるようになる。のみならず、神の契約はあなたから離れてはいない。聖霊はいまだにあなたのうちにとどまっておられる、ということをどうして耳を傾けて、真剣に心を向けていかないのか?」

というのがゼカリヤからの問いかけなのです。


一年間様々な事があります。

けれども一年間、私たちの信仰がそれによって少しでも成長することができますように。









Illustration of a Cross

お祈り

藤本 満 牧師

恵み深い天の父なる神さま


今朝の私たちには今朝の成長をと、

みことばを聴く度に

そのみことばが、教会から出た途端にカラスが

持って行ってしまう種の一粒ではなく、

良き地に蒔かれた種として、根を下ろして私たちを

成長へと導くことができますように。


そして、私たちが信じている神は万軍の神であり、

罪を決定的にお嫌いになりながら、

私たちの失望や罪深さや愚かさに嘆きながらも、
















「主イエス・キリストの恵みのゆえに、

慰めと力の言葉を語られ、

この方の契約は私たちから離れることはない」

ということをしかと心に留め、

この小さな信仰を

少しでも成長させることができますように

お助けください。


主イエス・キリストの

御名によって

お祈りいたします。

アーメン。

















Hand prayer Muslimah cartoon Illustration
2020 2 2

ゼカリヤ書

2

あなたは

どこへ行くのですか?

ゼカリヤ書2:1~13

Hermes Vintage Illustration Vector
Rope Icon

 さて、今年は元旦からハガイ書を2回、ゼカリヤ書1回読んでまいりました。

私(藤本牧師)も、33年の牧師の人生で、この書から説教するのは初めてであります。

とっても興味深い、考えさせられる出来事が記されていますね。

バビロンに捕られたイスラエルの人々のうち、一番最初に「帰還せよ」という世界情勢の変化と共に、帰ることができたのは5万人でした。その5万人が最初にエルサレムの神殿建設に着手します。

基礎ができた段階で、彼らは一つのお祝いをいたしますが、以前のソロモンの神殿に比べたら、あまりにも小さく、彼らは敗北感に包まれてしまい、神殿建設は基礎工事が終わったまま放っておかれてしまいます。

神さまはハガイ書の1章1節、そしてゼカリヤ書の1章1節で、王を通して働きかけ、預言者ハガイ・ゼカリヤを起こしました。

さて、「再び神殿建設に取り掛かれ」というメッセージから始まっていきます。

それは他ならぬ私たちへのメッセージでもあります。

私たちはどこかで信仰の基礎を建て、信仰の土台は据えるものの、そこで止めてしまって、鉄骨は建てたものの壁はできないとか、おおよそ外側はできたのに、中身はすっからかんだとか、色んな形で信仰生活を中断してしまうことが多々ある・・ということを考えながら、神さまの御思いを汲んでいただきたいと思い、

まずハガイから始めました。

カリヤ書1章の2節を見てください。

【主】は

あなたがたの先祖に激しく怒った。

  (ゼカリヤ1:2)

神さまの怒りが書いてあるということは、罪と不義、頑なな心に向かって発せられた神さまの怒りです。

アダムとその末なる私たちは死に定められ、この世界の様々な罪深さに私たちの頑なな心に、神の怒りが発せられているのです。


Illustration of an Angry Man

私と話していた御使いは私に言った。

「叫んで言え。『万軍の【主】はこう言われる。

わたしは、

エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。

(ゼカリヤ1:14)

そうした事態を神さまは見て見ぬふりをしておられるのではないということです。

神さまは激しく怒られたのです。

これはイスラエルにとりましては背信行為、不道徳、偶像崇拝。

しかし、それだけではないですね。

私たちの情けなさ、私たちの罪深さ、私たちの愚かさに対しても、神さまは激しく怒る力を持っておられます。

ところが後半14節に――







愛した。愛している。

怒った神が(ねたむほど激しく)愛している。


前回見ていただいた2節と14節ですが、ヘブル語は文法的に同じ構造になっていて、同じことばの動詞と目的語が二回出て来ます。

つまり直訳すると――怒りを怒った。

あるいは、ねたみをねたんだ――という風に、書かれています。

これはヘブル語では強調表現ですから、「激しく」というように両方とも訳されているのは、なかなか名訳だなぁというお話をしました。

神さまは私たちの罪を激しく怒る。しかし後半で、神さまは私たちを激しく愛してくださる。

それはいったいなぜなのか?


それは真ん中に、8節、一人の人が赤い馬に乗っていたとあります。

この人物の登場によって、怒りが愛に変わります。

そしてこの人物が12節で、万軍の【主】に問いかけをしています。

Horse Drawing Illustration

12……「万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたが憤られて七十年になります。」



 


まだ怒っておられるのですか?

怒りはこのままなのでしょうか?

世界の情勢も事態も動かないのですか?」


 最終的にこの方の執り成しにより、神の怒りより神の愛が勝るわけです。

「一人の人」、キリストが現れると。

私たちの敗北、敗北感、愚かさ、弱さ、試練の大きさ、不安、恐れ、罪深さ――それに対する神の怒り。

しかし、キリストが現れると、キリストの十字架の御業により、贖いにより、怒りは愛に変わり、激しい愛に変わって行く、というお話をしました。

そして今日は第2章です。


Love Flower Line Art

3つのポイントで短く見ていただく前に、2節を見てください。ゼカリヤが聞きます

「あなたはどこへ行くのですか?」と。

これを今日の説教のタイトルにしました。

これはゼカリヤ書の1章にも出て来ます。

ちょっと聖書を見てください。

こういう所が大切です。

9節に、「主よ、これらの馬はなんですか」

とありますでしょう。19節に、私と話していた御使いに「これらは何ですか」とゼカリヤは尋ねています。

つまり預言者に現れた神さまの啓示というものは、

《預言者が神さまに尋ねて、神さまが預言者に答える》という形式で書かれています。

そういう聖書の箇所は多いのです。

私たちは人生に疲れますよね。人間関係に疲れることも多々あり、自分に疲れることも多々あり、色んな突発的な出来事がこの年にも起こるでしょう。


Vector Image

私たちは祈りの中で、あるいはぼやきの中で、

神さまに尋ねる。

「主よ、これらの出来事は何なのですか?」

「あなたは、私に何を教えようとしておられるのですか?」と。

いいですか?私たちはこういう疑問をもって、神さまを自分の人生に引きこむ。

引きこむと言うのは、妙な表現ですけれども、

神さまを自分の人生に巻き込まなければいけない。

逆に言うなら、こういう疑問をもって、私たちは自分の人生から神さまを締め出さない、ということです。

「神さま、どうしてなのですか?」

「どういう意味があるんですか?」

「これは何なのですか?」

この《疑問を投げかける》というのは、「すべて神さまにゆだねて、神さまに任せるので、私は関係ありません」ではなく、自分の人生の様々な問いかけ、喜び、


喜涙、情けなさ、残念さ、うまくいかない状況を、

「どうして答えてくださらないのですか?」

「それにどういう意味があるのですか?」

「私に何か落ち度があるのですか?」

「いや、この世界にどういう落ち度があるんですか?」

という風に問いかけると、

神さまは答えてくださる――それが聖書なんだと、

これは私たち人間と神さまとの答えとの、やりとりの中で成立しているんだと、


いいですか、

そういうことを覚えながら、


私が「あなたはどこへ行くのですか」と尋ねると、彼は私に「エルサレムを測りに。その幅と長さがどれほどあるかを見るために」と答えた。


ここ2章2節で得られた答え――


Bible in a Bed of Flowers

どういう答えかと言いますと、先ほど言いました。

神殿の再建は基礎工事を終えて、ある意味敗北感に包まれて17年間、工事が再開されることはなかったのです。


しかし、神殿工事を、信仰者の信仰人生の工事を、積極的に神さまはご自身でなさると仰る。


「どこへ行くのですか?」

「わたしは、あの人の信仰を立て直しに行く」

こういう神さまが、私たちの側にいるんだ。


私たちが問いかける時に、神さまは必ず答えをくださる。「何も答えないような、口のない神ではない」と、神さまは仰いました。


そういう気持ちをもって、私たちは聖書を読むんです。

ゼカリヤの質問は私たちの質問であり、ゼカリヤが得た答えは、私たちが得る答えなのかもしれません。

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1)さあ、すぐに、北の国から逃げよ。(6節)



さて、そのことを念頭に、3つのポイントを、(2章の)流れに沿って、神さまの命令が3つ記されていますので、非常に簡単ではありますが見ていただきたいと思います。

神さまは――(ゼカリヤ2章)6節を見てください――

わたしが神殿を再建するので、「さあ、すぐに、北の国から逃げよ」と仰います。




北の国というのはバビロンです。

申し上げましたように、バビロンから帰って来たのは5万人でありました。

70年間バビロンに捕囚されていたのですから、ほとんどの人はバビロン生まれなのです。

ですから、故郷に帰ると言っても、故郷を知らない。

今更知らない故郷エルサレムに帰る意味があるのか?













勿論バビロンでは奴隷です。

でも、何百キロも離れたエルサレムに帰って、これからもう一度家の建設から始める位だったら、この(捕囚の)生活でどこが悪いというのだろう。


そもそも、捕囚へと散らしたのは、神さまご自身でしょう?


それは私たちの罪の結果なんですけれどもね。






Captive Insurgents Vintage Illustration

『あなたがたに触れる者は、わたしの瞳に触れる者。





その神さまが、仰います。

「逃げるようにして、わたしの所へ帰って来い。

今のままで、北の国で、異国で、居心地は良いかも知れない。けれども、実は、そこはあなたのいる所ではない」というメッセージです。


8節、万軍の【主】はこう仰います。



帰って来るというその過程において、わたしは絶対にあなたがたを守る。

だれもあなたがたに触れさせない(という約束です)。


ちょっと旧約聖書の申命記32章の10節を見ていただけますでしょうか。

ご一緒に読んでみたいと思います。







主は荒野の地で、

荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、

これを抱き、世話をし、

ご自分の瞳のように守られた。

  (申命記32:10)





Open Human Eye Illustration
Skull and Dead Tree Illustration

何か危険な思いをしますと、

私たちは一瞬目を閉じますよね。

「瞬き」というのは、わかりません、年齢と共に遅くなるのか?(笑)

でも依然として瞬きは速いですよ。

何かが飛んで来たと思ったら、一瞬避ける前に、取りあえず、目は瞑るでしょう。

それほど人は目を守る。瞳を守る。








Continuous line drawing of Christian prayer, vector illustration.

わたしは荒野であなたがたを見つけ、

あなたがたを世話しただけではない。

あなたがたを瞳のように、

自分の瞳のように、

あなたがたを守ってきた。


それは申命記という

何百年も昔の話ですけれども、

今に至るまで、

そして、

今バビロンに

捕えられている者たちに、

神さまは

仰るんですね。

  Cross and Heart



「あなたがたは、

そこで奴隷として居心地の良い生活を

学んでしまったのかもしれない。

しかし、そこは本来あなたがたのいるべき所ではない。

そこは荒野だ。

わたしは再びあなたを見つけ、

そしてあなたは勇気をもって帰って来い。

その時、わたしはあなたを瞳のように守る。」


最も大切な部分として守るから、

北の国から帰って来い。

あなたは、神のかたちに造られ、

神の似姿に創造されたのだ。

死と罪の世界に住む者ではない。



Brown Monoline Elegant Women's Veil Hijab Lslamic Religion Symbol

2)『娘シオンよ、喜び歌え。楽しめ。 

見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。

――【主】のことば―― (ゼカリヤ2:10 )





さて、二つ目の命令を見ていただきたいと思います。ゼカリヤ2章の10節です。

ちょっと一緒に読んでみましょうか。






喜び歌え、楽しめ。」

今日はチャリティーコンサートがありますが、歌の好きな人たちが歌う会だと思わない方がいいです(笑)いですか。歌の好きな人たちが歌う会というのもあるんですよ。私(藤本牧師)は歌は不得手です。でも歌の好きな方々の中に自分自身を置くと、自分自身の暗い気持ち、自分自身の失望した気持ち、自分自身の内側に本来あるいのちが、その歌によって振動するような気持ちになります。







私自身は、何か音楽というものがができるんだろうかと考えますと、結論は何もできないだろうなぁと思います。ハーモニカも吹けないだろうと思いますが、そのハーモニカを見事に吹く方の前に自分を置くと、不思議な感覚になります。

この方と自分とは同じ神のかたちに造られている。

つまり、この方吹かれたハーモニカ演奏によって結ばれるように、私はできているんですよね。

中には耳の聞こえない方もいるかもしれない。目の見えない方もいるかもしれない。

それでも私たちはどこかで繋がれるようにできているんですよ。

そして、私たちが繋がるだけではないですね。

この(10節)「娘シオンよ」というのは、「神の家に、神の神殿に住む者たちよ」ですけれども、私たちは、「見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む」とあるように、神さまと繋がっている。



Keyboard and Musical Notes

神さまのかたちによって人間は造られている。

だから人間には尊厳というものがあるのです。


私たちがどういう風に機能障害を起こそうが、

自分のいのちが風前の灯であろうが、

小さな赤子であろうが、

同じように私たちは

人一人としての尊厳を持っている。

なぜなら神は人みなを

神のかたちに造られたから、ですね。

すると、人同士が繋がっているのみならず、

あなたは神と繋がっていなさい。


わたしは

あなたのただ中に住む。

真ただ中に住む。






Lined Parent's Hands Holding Their Baby's Feet

先日、昨年の上田の台風で被災された方々がいまだ避難所にいる、とニュースで報道されていました。

体育館で段ボールで仕切って生活しておられるんですけれども、実は受け入れたいという都道府県も、また長野県地域の場所も、実はいくらでもあるのだそうです。

しかし皆さんは、そこには行きたくない。

ここにいれば、まわりは同じ地域に住んでいた人たちだし、みんな同じ無念さも苦しみも体験した人たちです。段ボールで仕切られた空間かもしれないけれど、ここから移ってしまったら、自分はもう何の繋がりもない人たちと、恐らく孤独に住むのではないだろうかという恐怖感があるのです。

勿論、若ければ、それでも一歩踏み出して、新しい人間関係の中に飛び込んで行ったらいいじゃないか――

こう私たちも思いますよね。

でもお歳をめされるとなかなかそれが難しい。

しかも一人暮らしだとなかなか難しいものでしょう。



 東北大震災の後、避難住宅として建てられた新しいマンション、非常に良い、新しいマンションのニュースを、私は見たことがあります。

――誰が住んでいるのかを知らない。

昔は町内会があった。

今は何階の何号室に、どういう人が住んでいるのかも知らない。

それで、数名、孤独死をなさった方がおられたということでした。

 震災により町が壊れて、被災した方々はどこかにまとめられる。新しい人間関係を構築する意欲が、強力にある人たちがいれば、そのマンションで祭りをやろうよとか、みんなでコンサートをやろうよとか。そういうこともあるのではないでしょうか?


そのようなことを、今日のコンサートを前にふと思いました。







Lined Parent's Hands Holding Their Baby's Feet

私は、私たちの教会を大きな教会だとは、思っておりません。

外の教会に奉仕で行きますと、自慢できることがあって、それは「高津教会は駅に近いんです」ということです。

我が家のモットーは「電車を見たら走れ」(笑)。

駅の所に、「電車を見たら走るな」って書いてあったから、あ、うちと逆だなぁと(笑)。

うちは、もうねじ込んででも走れと、「電車を見たら走れ」というのがモットーだったんですが。

昔は牧師館の構造が違いましたので、そこの門を出た段階で、電車が来ると音が聞こえるんですよ。それで、バア~っと走って行くと乗れちゃうんです。

今はもう体力的に無理かなぁと(笑)、そんな走ってみっともないなぁ、っていうのがありますので、そんなことはしませんけれども。




しかし、そのメリットが逆にもなりまして、

私たちの教会の最大の利点であるこの「駅から近い」ということは、実は最大の弱点でもあります。


やっぱり、皆さん帰るのが早いのです(大笑)。

多くの方はコインパーキングでしょうから、一分遅れたために追加で幾らかを支払うことになるとか、そんなことを考えないわけでもないと思いますよ。


そうした中で、せめて月に一回でもフェローシップをしようと思いますけれども、「繋がりを求めてない」という方もおられるし、「フェローシップに出てみたんだけれども、やっぱりうまく繋がれなかった」という場合もあるでしょうし、それから、「家で愛する家族が待っている」という場合、特に女性であれば、ご飯の支度など家事もしなければいけませんよね。










礼拝だけでお帰りになる方がおられるのも、しごく当然のことであろうと思うのです。


けれども、もしそういうことから解放されているなら、「少しでも教会に繋がろう」とお考えいただきたいのです。「教会に繋がる」ということは、人と繋がることだけではありません。

「神と繋がる」ということにもなりますから。


「ここには、神がただ中に住んでおられる」

ということを意識して、そして、「喜び歌え。楽しめ」(ゼカリヤ2:10 )と、あなたの人生の様々な難題に、賛美と喜びを浸透させてごらんとおっしゃる神さま。

「神に委ねる」ということを、「繋がり」を通して少しでも知ることができたら――と思うのです。



さて、3番目の命令。

ゼカリヤ書2章に出てくる3番目の命令は、13節です。これをご一緒に読みたいと思います。2章の最後ですね。


 すべての肉なる者よ、【主】の前で静まれ。

主が聖なる御住まいから立ち上がられるからだ。




静まれ、です。

もうこれ以上はコメントをしません。

これで終わりにしようと思います。


1)北の国から逃げよ。居心地がよくても、本来あなたが所属すべきでない所で、のうのうと暮らしているな。














3)静まれ


2)どんなに失望しても、難題の中でも、喜び歌え。なぜなら、わたしはただ中に住んでいるからだ。

3)わたしの前で静まれ。なぜなら、わたしが立ち上がるからだ。


この3番目のポイントについては、詩篇の46篇をご一緒に見ることで、もうこれ以上語ることなく完結するのがよいのではないかと思います。


詩篇46篇の1~11節までを交読して、そして終わりにいたしましょう。

あえて何の説明も加えません。


「静まれ」という言葉は10節に出てきます。

ここでは「やめよ」と訳されていますが、これは「静まれ」と同じことです。




1 神は われらの避け所 また力。

  苦しむとき そこにある強き助け。

2 それゆえ われらは恐れない。

  たとえ地が変わり

  山々が揺れ 海のただ中に移るとも。

3 たとえその水が立ち騒ぎ 泡立っても

 その水かさが増し 山々が揺れ動いても。

4 川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。

 いと高き方のおられる その聖なる所を。

5 神はそのただ中におられ その都は揺るがない。

 神は朝明けまでに これを助けられる。

6 国々は立ち騒ぎ

 諸方の王国は揺らぐ。

 神が御声を発せられると

 地は溶ける。













Thin Outlined Lavender

詩篇46:1~11

7 万軍の【主】はわれらとともにおられる。

ヤコブの神はわれらの砦である。

8 来て 見よ。【主】のみわざを。

 主は地で恐るべきことをなされた。

9 主は 地の果てまでも戦いをやめさせる。

 弓をへし折り 槍を断ち切り 

 戦車を火で焼かれる。

10 「やめよ。知れ。

わたしこそ神。

わたしは国々の間であがめられ

地の上であがめられる。」

11 万軍の【主】はわれらとともにおられる。

ヤコブの神はわれらの砦である。



Thin Outlined Rose
Thin Outlined Peony

お祈り

藤本 満 牧師

恵み深い天の父なる神さま、

「あなたはどこに行かれるのですか?」

「何をしようとされているのですか?」

「わたしはあなたの信仰の建物を立て直しに行く。

だから北の国から帰って来い。瞳のように、わたしはあなたを守る。

だから失望の中で塞いでいないで、

怒りの中に閉じこもっていないで、

喜び讃美しなさい。

わたしがあなたのただ中にいるから。
















やめよ。静まれ。

そしてわたしこそ神であることを知りなさい。

あなたを愛し、あなたの世話をし、あなたを瞳のように守る神であることを知りなさい」


主よ、どうかこれらのみことばが私たちのたましいの奥深いところに届くことができるように、

聖霊に助けられることを切に願います。

主イエス・キリストの御名によって

お祈りいたします。

アーメン。

















  Cross and Heart
Continuous line drawing of Christian prayer, vector illustration.
2020 2 23

ゼカリヤ書

3

礼服を着る

ゼカリヤ書3:1~10

Jesus Open Arms

さて、ゼカリヤ書、第3章です。

ゼカリヤはハガイと同じ預言者でありました。

神さまに逆らった民イスラエルが、再び神さまのところに戻って来る。

彼はそのメッセージを携えています。

メッセージは非常にストレートです。


《1章》の3節をちょっと見てください。


  あなたは人々に言え。

『万軍の【主】はこう言われる。 

わたしに帰れ。

――万軍の【主】のことば――

そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。

――万軍の【主】は言われる。』




16節に同じように――

『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。

(そこにわたしの宮が建て直される。)

 しかし、それほど単純に帰れるわけでないという話をしてまいりました。

民は失望に包まれ、敗北感に包まれています。

また神さまに立ち返ったところで、彼らには神殿を再建する力は、そもそも残っていませんでした。

ですから土台だけ造って18年放置されます。

最終的にゼカリヤに語りかけられた神さまは、民の悔い改めよりもご自身の熱烈な愛をもって民を引き寄せられます。

それが1章の14節の最後――

わたしは、エルサレムとシオンを、

ねたむほど激しく愛した。

民の悔い改めの力よりも、神の愛にすべてがかかっているということがわかります。










《2章》に入りまして、

主はご自身が神殿を建てる、と仰いました。2節を見てください。

私が、「あなたはどこへ行くのですか」と尋ねと、

彼は私に「エルサレムを測りに。その幅と長さが

どれほどあるかを見るために」と答えた。


 そして前回、神さまご自身が再建する中で、私たちがすべきことを2章の中に出て来る3つの動詞に注目していただきご覧いただきました。

さあ、すぐに、北の国から逃げよ

あなたが本来属していない世の世界、しかしながらもう70年も過ごしているうちに、何となく心地よくなってしまった、その捕われの地(バビロン)から急いで戻って来なさい、わたしのところへ。

これは私たちに対する、神さまの強烈なメッセージですね。


 聖書の中では――(私たち自身も時に考えますけれども)――この世界にあって私たちは罪と死の奴隷であると

――しかし、なかなかそうは思えない。

でもよく考えてみると、私たちは憤りにとらわれ、不安にとらわれ、私たちは恐れに縛られ、自分自身を生かすことができず、「最終的に自分は何のためにこの世界に生きているのかわからない」という中、「そういう世界から逃げて来い」と神さまは仰るんですね。


●命令の2番目に、2章の10節を

見ていただきました。

娘シオンよ、喜び歌え。楽しめ。

見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。

神さまは私たちのただ中に住んでくださるという現実を、もっと喜び歌い楽しむような人間になれと。










Continuous line drawing of Christian prayer, vector illustration.

そういう意味で、西欧のそのクラシックの音楽を楽しみ、私たちは(2/9に西欧美術の)町田(俊之)先生をお招きいたしましたけれども、キリスト教美術を楽しみ、映画を楽しみ、ありとあらゆる所に秘められているところの神さまの恵み、愛を喜び、そして実は神さまは私たちのただ中におられる、ということを楽しむような人間になりなさい。

仕事のことばかりで一生懸命になっていないで、神さまが造られたこの被造物を楽しむ人間になりなさい。

神さまはあなたがたのただ中に住んでおられる。


●3番目が2章の13節でありました。

すべての肉なる者よ、【主】の前で静まれ。

静まれ。神さまが神さまであることを知り、静まることを学びなさい。そうして、あなたがたはわたしをしっかりと信頼しなさい。

という所まで見てまいりました。


  Cross and Heart

 ここから(今日の説教)3章です。

神殿の再建の責任は、ゼルバベルという行政の指導者と大祭司ヨシュアですが、ここに出て来るのは大祭司ヨシュアです。

ある晩、眠りの中で、預言者ゼカリヤは幻を見ました。

それは大祭司ヨシュアが神の前に立たされている夢なのです。

よく見ますと、大祭司ヨシュアの隣に、「サタンが彼を訴えようとして、彼の右手に立っていた」と、(3章の)1節の最後に書いてあります。

何のために、立っていたのか?

――それはヨシュアを訴えるためにです。


さて、ここから3つの短い点で

見ていただきたいと思います――


Giveth

1)サタンは誘惑する者だけでなく、告発する者


サタンは告白者だった。

ちょっと黙示録を見ていただきます。

聖書の一番最後の黙示録の12章、一番最後(の書)ですから分かり易いですね。

(ヨハネの黙示録)12章の10節です。一緒に読んでみたいと思います。

私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。

「今や、私たちの神の救いと力と王国と、

神のキリストの権威が現れた。

私たちの兄弟たちの告発者、

昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、

投げ落とされたからである。

ここに書いてありますね。

サタンは告発者であり、昼も夜も私たちの神の御前で、私たちのことを訴える者であると。


 ごめんなさい、説教原稿には書いてないんですが、ふと思い出しました。

 私(藤本牧師)が中学一年生の時。

私と数名の友人はまさにサタンだったなぁと思います。一人の友人が、体育館で体育の授業をしている最中に、非常ベルを見つけたんですね。

彼は純粋に、「これは一体何だろう?」と。

私たちはそれが非常ベルだと分かっていましたけれども、「何かなぁ?押してみたら?」(大笑)。

彼は、「え、こんな赤いボタン押していいの?

押したらどうなるの?」

「それは押してみないと

分からないじゃない」

彼は本当に押したんですよね。

そして押した途端に、私たちは

「おい、おまえ、押しちゃって

いいのかよ~」って・・・。


Fire Alarm Bell

1)サタンは誘惑する者だけでなく、告発する者


サタンは告白者だった。

ちょっと黙示録を見ていただきます。

聖書の一番最後の黙示録の12章、一番最後(の書)ですから分かり易いですね。

(ヨハネの黙示録)12章の10節です。一緒に読んでみたいと思います。

私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。

「今や、私たちの神の救いと力と王国と、

神のキリストの権威が現れた。

私たちの兄弟たちの告発者、

昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、

投げ落とされたからである。

ここに書いてありますね。

サタンは告発者であり、昼も夜も私たちの神の御前で、私たちのことを訴える者であると。


 サタンは告発者として、日夜私たちを告発する。

先ず私たちを誘惑して、引きずり込んで、

それで終わりではない。

自分で引きずり込んでおいて、最後の瞬間に

(私たちが)主の御前に立つ時に、

サタンは現れて非難します。

サタンが言うには、

「神さま、こいつです。

こいつは汚れた奴です。

こんな奴は私の誘惑に

易々と乗るんですから、

クリスチャンとは呼べません」

欲、憤り、権力、嫉妬、

プライド、富に誘い込んでおいて、

いざ私たちがはまりますと、

最後にそれを責め立ててきます。


Cyber  Concept. Opinion and the Pressure of Society. Shame. Hands of People Point to the Man. Non-Confident Woman. Vector. Flat

●イエスさまが広場で教えていた時に、

ファリサイ人たちが姦淫の現行犯でとらえた女性を

「石打ち(の刑)で殺しましょう」と提案いたします。

裁いて、責め立てていくサタン的な世界にあって、

イエスさまは「あなたがたの中で、

先ず罪のない者が

石を投げよ」と。

そんな人は一人もいませんでした。

みんな去って行きます。

イエスさまは

その女性に言いました。

「わたしも

あなたを責めるまい」

と。

(ヨハネの福音書8:1~11)


Vector Image
Jesus Christ Illustration

●ユダがイエスさまを売り渡します。

銀貨30枚で売り渡しました。

彼はそれを後悔します。そして神殿に戻って、祭司長、長老たちに言います。「私は罪を犯した。罪のない人を私は売り飛ばしてしまった」と。

ところが神殿の祭司長、長老たちは、ユダに言います。逆にユダを責めます。

「それはおまえがしたことだ。私たちの知ったことか。自分のことは自分で始末しろ」と。ユダは自殺をいたします。(マタイ27:3~5)

サタンはユダを利用するだけ利用しておいて、

最後はユダを責め立てます。

そしてユダは行き場所を失って、首を吊るのです。

私たちは様々な場面で人を責める時がありますが、人を責め過ぎないように気をつけなければいけない。なぜなら、人を責めるのが最も得意なのがサタンだからです。


Illustration of a Scary Devil Playing with Fire

しかし、もっと考えてみなければいけないのは、

責められて当然なのは私たち」であります。


主の前に立たされたこのヨシュア、ゼカリヤ書のヨシュアは、汚れた着物を着ていました。

ゼカリヤの3章の2節に戻っていただきますと―

【主】はサタンに言われた。「サタンよ、【主】がおまえをとがめる。エルサレムを選んだ【主】が、おまえをとがめる。この者は、火から取り出した燃えさしではないか。」

「火から取り出した燃えさし」ではないか?

と神さまは呼んでおられます。


「火から取り出した燃えさし」――これはジョン・ウェスレーが、「自分の墓碑にして欲しい」と言った言葉ですね。ほんとうにこの言葉が好きでありました。


Blocky Halloween Tombstone

 【※しかし、神さまはここで、逆にサタンを非難されているのです。


「これは、『燃えさし』でも、わたしがこれを選んで、救い出した。取り出した。」

つまりヨシュア(私たち)は

『神によって救い出された燃えさし』

だということです。

わたしが責めるのは、

おまえ(サタン)の方だ、

と言われているのです。】

私たちはどんなにきよらかであり、どんなに真面目に生きていても、神さまの御前で依然として、「火から取り出した燃えさしに過ぎない」という現実を受け止めなければいけない。


ところが、ところがですよ、二番目に、神さまは(ゼカリヤ3章の)3節見てください。



Hand Gesture
Hand Holding Torch Illustration

ヨシュアは汚れた服を着て、主の使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちにこう答えた。「彼の汚れた服を脱がせよ。」そしてヨシュアに言った。「見よ、わたしはあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。」(ゼカリヤ書 3:3~4)


2)神さまは礼服を着せてくださる


一番目に見たのは、サタンは私たちを責める。

で、私たちは責められても仕方がないような存在です。

私たちはどこまでたっても、「火から取り出した燃えさし」のような者であります。でも、神さまは私たちに汚れた服を脱がせて、礼服を着せてくださいます。

5節を見てください――私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると、彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、服を着せた。そのとき、【主】の使いはそばに立っていた。

 実際、エプワースの牧師館――彼のお父さんは牧師(※国教会の司祭)でありましたけれども――牧師館は火事に遭います。一番最後に二階から救出されたのが、当時6歳のジョン・ウェスレーでありました。その時から、「自分は何か特別な目的のために、神さまによって救い出されたのだ」という意識を持つようになり、彼はやがて伝道者となります。


「しかし自分という人間は、あの(火事の)場面において、『火から取り出された燃えさし』であり、

その後においても、自分はこの罪深い世界の中に

あって、神さまに用いられて来た。

しかしそれはあくまでも、

自分自身もこの世界に

焼かれた人物だからだ」と。


Fire Burning Illustration
Wesley Chapel on John Street Vintage Illustration

これはいつも申し上げることですが――

最近火事が少なくなりまして、昨日中原区かどこかで

火事があったと聞きましたけれども、火事の現場って、200メートル位あたりから臭いますよね?

実際、興味本位で出かけて行きますと、その黒く燃え焦げた柱など、色んなものが混ざって

付着したのか、どうして

こんな臭いがするんだろう?

という、焚き火とは全然

違いますね。

さて、そしてあの「燃えさしではないか」と言っているのは、サタンがヨシュアのことを言っているのではない

のです。神さまが言っているのです。

(ヨシュアをサタンが責めているんですけれども)

神さまが「その通りだね」と。

「このヨシュアも火から取り出した燃えさし

ではないか」と。


Flame Border Fire

 ――礼服を着、きよいターバンを巻かれ


私たちにしてみれば新しい服を着る

ということです。

ドレスを着る。着物を着る。

スーツを着る。礼服を着る。

こういうことは、昔の人たちにとって、それほど頻繁にあったことではないでしょう。

皆さんにとっては、もしかすると好きな服がジーンズかもしれない。スーツなのかもしれない。

しかしやっぱり新しい服を着ますと、それをはいてみて着心地を確かめ、また鏡の前に立って自分の姿を見るのではないでしょうか?

そうですよね?たとえセーター1枚だって、それを着たら、どうかなあと思ってみるじゃないですか。

洋服が氾濫している現代でさえ、新しい服を着ると自分が変わったような感じがいたします。



wedding

しかしこの世界にあって、「彼の汚れた服を脱がせよ」

「あなたに礼服を着せよう」というのは、

神さまの特別な計らいであって、そして「神さまが彼の罪を取り除いた」という意味なのです。

聖書の中で、神さまが一番最初に私たちに示してくださった憐れみって何だと思いますか?

それは――

エデンの園で、罪を犯したまま、

自分たちの裸を恥じて、

いちじくの葉っぱで縫い合わせたものを

腰の回りにまとって、

神さまの視線を避けて

木の間に隠れているアダムとエバ――

そんな彼らに、毛衣を作って着せてやった

神さまの姿というのが、

一番最初に出て来る憐れみですよね。

罪深い者たちに対する憐れみです。

(創世記3:7、21)




Adam and Eve

パウロも私たちも、たとえて言うならば、

「自分が燃えさしである」ことを認めます。

パウロは言いました

「自分は罪人のかしらだ」と。(Ⅰテモテ1:15~16)

しかしパウロはこうも言います。

私がそのようにして憐れみを受けたのは――

「イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようとして、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださった(からです)」と。

パウロは、「罪人である私が憐れみを受けたのは、見本となるためであって、 今後私のようにこの上ない寛容を受ける人々は、この世界に沢山いる。

その最初が私だが、私は教会を迫害して生きて来た。 けれども主は私に対して十字架の贖いの礼服を着せてくださり、 私を用いてくださった」と言うのです。


Floral Flower Vector

 神さまはいつもその時から、私たちに――燃えるススのような私たちに――キリストの純白の衣を着せてくださるお方です。

キリストの十字架の恵みという真っ白で染みのない礼服を、(私たちに)着せてくださる。

そしてヨシュアに言われたように、私たちにも言われる。「見よ。わたしはあなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう」

新しい訳(新改訳2017)では、

「見よ、わたしはあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。」――4節の最後です。

8節を見てください。

主はヨシュアを励まされました。

聞け、大祭司ヨシュアよ。

あなたも、あなたの前に座している同僚たちも。

彼らはしるしとなる人たちだ。

見よ、わたしはわたしのしもべ、若枝を来させる。


Budding Flowers Illustration
Hand Drawn Lines Organic Floral Decorative

先程のゼカリヤの3章7節の最後を見てみましょう。

7 わたしはあなたに許す。

というこの宣言。

礼服を着せておいて、これはもう宣言です。

「わたしはあなたを許す」と。

これが今朝の私たちですよ。

2つポイントをお話ししました。

1)サタンは私たちを責める。

2)神はキリストの礼服を私たちに着せてくださる。そして仰る。「わたしはあなたを許す」と。


さて3番目、これで最後です――

(ゼカリヤ3章)6節を見てください。

6【主】の使いはヨシュアを諭して言った。



Rustic Organic Flower

諭して言ったというのは、諭したのですから、

諭されたその言葉は、


7 「万軍の【主】はこう言われる。

  『もし、あなたがわたしの道に歩み、

わたしの戒めを守るなら、

あなたもまた、わたしの家を治め、

わたしの庭を守るようになる。

……

諭してそう言われたんですよ。

「わたしの道を歩め。わたしの戒めを守れ。

すると、あなたはわたしの家を治め、わたしの庭を守るようになる。

それ程の祝福とそれ程の権威を得るようになる」




Pink Flower Arrangment

どういう風に諭されているんだろうか?

実は私は3年前にこのゼカリヤの3章から説教をしています。

皆さんも覚えておられると思うんですが、その時用いた話をして終わりにいたします。

どういう風に諭されているのか?という感覚を、この話はとてもよく伝えていると思うんです。


T先生が神学校の入学式の時に(ですからもう7年ぐらい前ですね)、私は祝辞を述べるように言われました。神学校の礼拝堂の講壇に上がり、自分の番を待って祝辞を述べて、入学式が終わる予定でした。

祝辞が終わったらすぐ記念撮影ですから、散らばらないように座っていました。

それで、私は近くの席に座っておられた、東京フリーメソジストのN先生に声をかけました。




「先生、ご無沙汰しております。お元気そうでいらっしゃいますね」と言った途端に、

N先生が私に――先生と私は15か20くらいの歳の差ではないでしょうか、私が下です――

「藤本先生は、良い姿勢で歩かれますね」と言われたんです。 ―― え?と思いました(笑)。

「良いスピーチでしたね」とか(笑)そういう感想ではなくて、「よい姿勢で歩かれるね」とはどういう意味なんだろうか?私はびっくりしまして、「ありがとうございます」とは言いましたけれども、「よい姿勢で歩かれる」とはどういうことか考え込みました。

入学式ですので、教授陣は並んで入って来るわけです。

私は祝辞でしたので、一番先頭で入って来ました。

良い姿勢で――と言われましても、私は喘息ですから、基本的に猫背なんですよね。

「良い姿勢だ」とほめられたことは、人生で

一度もないのです。

それで帰り道もずっと

思い巡らしていまして、

はたと気がつきました。

 私はその時に

――10万円のスーツを着てたんです(笑)。

そしてその10万円のスーツというのは私が自分で買ったというものではありません。

実は、「買ってください」と言われまして――普段ボロボロのものを着ていたというのもあるのかもしれませんけれども(笑)―― 購入代金を手渡されたのです。

それはもう「はい」と、その金額で買わなければならないような状況でした。

それで私は10万円のスーツを買いに行きましたが、その辺りに売っている物でもありません。


Suit with Tie Icon

私にしてみれば、とても高価なスーツですから

もっぱら、クリスマスとお正月

元旦礼拝だけに着ていました。

けれども7年前、お腹が出て来たのですね。

これは、このままお蔵入りするのか?

と思いまして、それではもったいないから

もう普段に着ようと決心しましたが

その「この場面でしか着ない」という絶対的な

結婚式、元旦礼拝、クリスマス礼拝

これしか着ないという一帳羅対スーツだったわけです。

私はそれを着ていたんですね。

あ、なるほど、それを着ると、私はそれなりのふるまいをするんだ(笑)、それなりの歩き方をするんだ。

だからT先生に誉められたのだ。

普段の私の、喘息で猫背の歩き方ではなかったんだ。

ということに気がついたのです。



Lined Freeform Wedding Groom Suit

きっと皆さんもそうだと思うのです。

タンスの中か、どこからかはわかりませんけれども、非常に高価なバッグを出して来たとか、

あるいは同じ靴でも「これは高価」という靴を履いた時であるとか、 それから美容院に行って、「今日はベストだ」という髪型にしていただいた時、やっぱり颯爽と歩くじゃないですか?

そういう歩き方をしてみてはどうか?というのが、私は、6節の意味していることだと思うのです。


つまり、神さまは

「わたしはあなたの汚れた服を脱がせ、

礼服を着せた」のですよ。

ですから、6節に「【主】の使いはヨシュアを諭して言った。」

(私たちもまた諭されるのです)


7 「万軍の【主】はこう言われる。

『もし、あなたがわたしの道に歩み

(私たちは歩めるんですよ) 

わたしの戒めを守るなら

(守れるんですよ、そうすれば)

あなたもまた、わたしの家を治め

わたしの庭を守るようになる。

……


少しはキリスト者として、レディス&ジェントルマンなふるまいをしなさいと。

礼服を着たら、礼服にふさわしく歩みなさい。

何よりも、礼服を着せて下さった方を忘れないように。

その時あなたは、宮を治めるようになる。

わたしの庭を守るようになる。

わたしの宮に出入りする者になる。




Wedding Couple in Formal Suit and Dress Flat Style

お祈り

藤本 満 牧師

恵み深い天の父なる神さま

この特殊な形態の礼拝でありますけれども

恵みはこの場に充満し

同じくインターネットを通して

聞いておられる方々の

心にも届いたことを確信いたします。

どうか私たちの一週間をお守りください。

そしてどうかこの一週間、

少しずつ感染者の人数が

増えていくのかもしれませんが

でもどこかであなたがその現象を

逆転してくださいまして

私たちをお守りください。

















私たちは実際、交通事故、病、災害、犯罪、

ありとあらゆる局面で、

危機的な中を生きている者たちでありますけれども、今日ここに無事に

礼拝を守っていることができるのは、

あなたの御守りのゆえです。

それをいつも感謝しながら、

適度な緊張感を持つことができるように

私たちをお助けください。





Continuous line drawing of Christian prayer, vector illustration.
2020 3 1

ゼカリヤ書

4

わたしの霊によって

ゼカリヤ書4:1~14

Vector Image

さて、今日はゼカリヤ書の4章です。

前回は3章を見ていただきました。3章で《サタンから攻撃を受けている》、非難されている大祭司ヨシュア。《火から取り出した燃えさし》のこの汚れた服を脱がせて、「礼服を着せてくださる神さま」という話をしました。それで、やがて彼は「あなたもまた、わたしの家を治め、わたしの庭を守るようになる」と《大祭司ヨシュアを用いてくださる》ことを宣言されました。


今日はゼカリヤの4章です。

ゼカリヤの4章はゼカリヤ書の中で最も有名です。なぜかと申しますと、それは6節のこのことばがあまりにも有名だからです。

6 彼は私にこう答えた。「これは、ゼルバベルへの【主】のことばだ。『権力によらず、能力によらず、

わたしの霊によって』と万軍の【主】は言われる。


大祭司ヨシュアが宗教の指導者であれば、ゼルバベルは神殿再建に当たっての行政の指導者です。

「ゼルバベルへの【主】のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』

このことばがゼカリヤ書の4章に出て来るがゆえに、ゼカリヤ書4章が有名だといっても過言ではありません。簡単に3つのポイントでお話をいたします。


1)質問の答えをよく聞く


(ゼカリヤ)4章は全部が預言者ゼカリヤと神さまのやり取りで記されています。

それが大変興味深いので、先ずはその点に注目しますけれども、2節に神さまの方から始まります。「あなたは何を見ているのか」ゼカリヤは、不思議な形をした燭台を見ていました。そのそばにオリーブの木が二本立っていました。


するとゼカリヤは尋ねます。

4節に「主よ、これらは何ですか」と尋ねています。

こうして主の語りかけ、啓示が始まって行きます。

この質問と答えでゼカリヤ書が成り立っている

ということは、2章で学びました。

一度、2章に戻っていただきますと、

2章の2節にこうあります。

2 私が「あなたはどこへ行くのですか」と尋ねると、彼は私に「エルサレムを測りに。

その幅と長さがどれほど であるかを見るために」

と答えた。

また1章にも、こういう質問があります。

9 私は主「主よ、これらの馬は何ですか」と尋ねた。すると、私と話していた御使いが「これらが何なのか、あなたに示そう」と言った。

19 私と話していた御使いに「これらは何ですか」と尋ねると、彼は言った。……




ですから、1章2章――3章を除いて――4章と、基本的にゼカリヤが神さまに尋ねる場面、あるいは神さまがゼカリヤに尋ねる場面で、この預言が成り立っているということは既に申し上げました。

私は(藤本牧師)はこれはとても興味深いと思っています。

私たちは人生に疲れ、行き詰まり、

人間関係に疲れることも多々あります。自分自身に疲れることもあるでしょう。突発的な出来事が、今年も何度も襲いかかるに違いありません。

私たちは祈りで、神さまに尋ねていくことになります。「主よ、これらの出来事は何なのでしょう?」「これらの試練は何の意味があるんでしょう?」「私はどうしてこうなんでしょう?」「あなたは私に何を教えておられるのでしょう?」

質問だけは、私たちはいくらでも 祈りの中で神さまに発することができます。



大切なのは、ただ質問を発することではなく

ゼカリヤのように、

その質問の答えを神さまが仰る時に

神さまに耳を傾けていることです。


イギリスの有名な聖画家に、「ピラトの前のキリスト」という絵を描いた人物がいます。私は実物を見たことはありませんが、インターネットでChrist before Pilate と検索をかけるとすぐに見ることができます。

十字架にかかる前、イエスさまはユダヤ人の議会にさばきに掛けられ、何も罪がないということを知っていながら、ピラトの官邸に引き渡されて行きます。

その絵では、ローマの総督ピラトは総督としての服装をし、権力を誇示するような目つきで、イエスさまを見据えています。対するイエスさまは素朴な姿でそこに立っている。

それを取り囲んでいる群衆がいる、という絵なのです。



Ear

ヨハネの福音書には、ピラトとイエスさまのやり取りが記されています。ピラトは「おまえは一体何者なのか?」とイエスさまに尋ねます。するとイエスさまは答えます。

「わたしは、真理を証しするためにこの世界に来たのです」と。(ヨハネ18:37~38)

この非常に興味深い質問の答えを聞いた時に、

ピラトは思わず、

「では、その真理とは何なのですか?」

という大変重要な質問を問うています。

ところが聖書を見ますと、その質問を発した次の瞬間に、ピラトはイエスさまに背を向けて、群衆の様子を見に行きます。

その絵もあるのです。

アントニオ・シセリという画家が描いた「ポンテオ・ピラト」という絵です。まさにその瞬間をシセリは描いています。


シセリは背中を見せて、その正面は官邸のバルコニーから下を覗き込んで左手を後ろにやって、「あなたがたは、一体あいつをどうしろというのだ?」とイエスさまを指さしている絵を後ろからこう描いています。


私は、これが私たちの姿であろうと思っています。

つまり神さまに結構正しい質問を投げかけます。死んだらどうなるんだ?と人間って何のために生きているんだ?と。自分のこの試練に何の意味があるのか?と。

もっと言えば、地球温暖化でもそうでしょうし、あるいはこうしたパンデミックな感染症もそうなのかもしれません。思い巡らして色々考えて私たちは質問をしますけれども、ところがいざという時に、神さまが答えようとする時に、その答えを聴く姿勢がないです。むしろ私たちは神さまからの答えに背を向けて、群衆の答えに耳を傾けてしまう。テレビの専門家のコメンテーターの様々な声に耳を傾けていく。



この答えを聞かなければ、預言書の書物は存在しないのです。《私たちは人生の様々な場面で、往々にして、良い質問を神さまに投げている。しかし肝心要の神さまの答えを、私たちは聴く姿勢がない》

というのが一つのポイントでございます。ですから、きちっと神さまの仰ることに耳を傾ける信仰者になりたいと思います。


2)本題です

燭台の絵を見ながら、

2節を聞いていてください。

2 彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」私は答えた。「私が見ると、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があります。


Menorah.

この上部にあるともしび皿には、それぞれに七本の管が付いています。

ということは、その管を辿りながら、油に火が灯されるということなのでしょう。

3 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はその鉢の右に、もう一本は左にあります。

これをメノーラ(画像参照)と言います。

どれほど大切なものなのか、一つのエピソードで紹介します。私たち家族がニュージャージーにおりました時に、フリーメソジストのアメリカの先生が、日本人があまりに多いので、日本人教会を開拓したい、協力をしてくれないか、という話がありました。

当時、日本経済はバブルでありましたから、ニューヨーク付近の日本人補習校が7校、生徒数4千人です。私も妻も土曜日に補習校で教えていました。

世田谷のYTさんのご家族は、同じ時期にそこで家庭集会をなさっておられて、妻はTさんのご子息Y君を小学校で担任していました。





YTさんの奥さまは、当時2歳3歳であった私の息子を今でもよく覚えてくださっています。

さて、フォートリーというマンハッタンの対岸にある町に、日本人町ができた。

そこに行けば、英語も要らずにヘアカットから何から全部できる、お医者さんにかかることもできる、そういう町でありました。

礼拝のために、その町に日本人教会の教会堂を借りたんです。それが最高の教会堂でありました。

何しろ、よその教会堂なのに、日曜日の午前の礼拝に使わせてくれるんです。そんな教会はないですよね。普通は午後やってくださいとか、違う曜日にやってくださいということになりますでしょう。

日曜日ドンピシャ10時半に礼拝をさせてくれる教会堂――それはユダヤ教の教会堂でありました。

ユダヤ教の礼拝日は土曜日ですから、日曜日はお休みなのです。

構造はほぼ同じでした。

講壇がありまして、そしてこういう形の会衆席がありまして、それからオルガンがありまして、全く同じでありました。

講壇の所にカーテンがかかっている場所があり、それがいわゆる「至聖所」と呼ばれる、一般の人たちが入ってはいけない所ですが、そういう所があると、不遜な私は思わず、覗いてみたくなって(笑)

――性格上のことで困ったものなのですが――

開けてみました。

開けてみましたら、このメノーラが

置いてあったのです。

ということは、私たちにとっては

十字架がシンポルでしょう?

週報の下に描いたのは、

現代のイスラエル国の国章ですね。

つまりお札やコインに押されている国章なのです。


それが、このゼカリヤの4章に描かれている金の器なのです、燭台なのです。

金の燭台は神殿の完成を表しています。

神殿が完成されるといったいどうなるのか?

ちょっとイザヤ書の62章を見ていただきましょう。

イザヤ書の1節と2節、私が1節を読みますので、皆さんが2節を読んでみてください。


1 シオンのために、わたしは黙っていない。

エルサレムのために沈黙はしない。

その義が明るく光を放ち、

その救いが、たいまつのように燃えるまでは。

2 そのとき、国々はあなたの義を 

すべての王があなたの栄光を見る。

そのとき、あなたは新しい名で呼ばれる。 

【主】の御口が名づける名で。


この「そのとき」というのは、新約聖書を超えて、神の国が完成するその時なのでしょう。

しかしその時に至るまで、イスラエルも、また教会も、光として捉えられています。

イエスさまのたとえ話の中で、

「あなたがたは世の光です」

という喩えもありますし、

「その燭台を机の下に置く者はいません」

(マタイ5:14~15)という喩えもあります。

あなたが持っている証を、高らかに世に輝かせなさいということですね。

神さまが私たちに与えてくださった愛や平安は、 隠しておくためにあるのではない。

私たちは光となって、輝きを放ち、周囲の人々を照らすような存在だと。 それが神殿であるわけです。それが世の光であるキリストであり、その光をいただいた私たちであるわけです。






Burning Candle Illustration

ゼカリヤはそれを見ていました。そして両側にあるオリーブの木というのは、再建の柱となるゼルバベルと大祭司ヨシュアが、完成に至る神殿を囲んでいるわけです(14節)。神殿という時に、私たちは必ずしも建物を考えません。それは神さまの臨在する場所。そこにおいて、神さまが私たちと共に交わり、神さまが住んでいてくださる場所です。神殿というのは私たちの人生であり、また最終的にこの世界の完成なのです。

さて、ここで大切な、重要なみことばが出て来る。その完成に至るまでの作業を

6節――『権力によらず、能力によらず、

わたしの霊によって』これを完成させるという。

いいですか。権力というのは、文字通りには、武力です。それから能力というのは、人の才能や力量です。今この時、イスラエルの民が神殿を再建しようというと、武力はありません。力量もありません。

ただひたすら、「神の霊」――これは世界を創造した

「いのちの息吹」です。

ルーアハという同じ言葉(へブル語)が使われています。 (創世記2:7、ヨブ記33:4など)

――「神さまの息吹」によると。


このことばは私たちの人生のあらゆる場面に、スタンプでも押すかのように記されていなければいけないのです。仕事であろうが、人生設計であろうが、老後であろうが、若い頃の計画であろうが、ありとあらゆる

(人生の)局面に、その文章が押されていなければいけない。 「権力によらず、能力によらず、

わたしの霊によって」という

このスタンプが、押されて

いなければいけない。



Stamp Icon Design
Yellow Floral Botanical Corner Border Frame Element Autumn Themed Linocut Stamp

「権力によらず、能力によらず、わが霊によって」――私たちが自分の人生を振り返った時に、全部そのスタンプが押されているだろうか?

私たちが将来の計画をしていく時に――それはもちろん私たちは私たちなりのものを立てますけれども――その下に「権力によらず、能力によらず、わが霊によって」というスタンプが押されているんだろうか?それが、私たちの人生の決め手になるわけです。

 さて、ここのところは強調し過ぎても強調し過ぎることはありませんけれども、強調し過ぎますと、 もう煩いくらい、私たちはこのみことばをよく知っているのですから、次にまいりましょう。


  3番目、これで終わりといたします。


3)ゼカリヤ4:7


大いなる山よ、おまえは何者か。

おまえはゼルバベルの前で平らにされる。

彼がかしら石を運び出せば、 『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫び声があがる。


ポイントはここにあります。

彼がその弱い力をもって、人々を指導しながら、かしら石を運び出す時に、 「恵みあれ。これに恵みあれ」と叫び声が、民全員から上がるのです。

そのようにして、ゼルバベルもこれから仕事をしていくのです。のようにして、民も仕事をしていきます。どういうことかと言いますと、敵対する人々に対しても、「恵みあれ。これに恵みあれ」と言いながら働いていくのです。




Yellow Floral Botanical Corner Border Frame Element Autumn Themed Linocut Stamp

誹謗中傷する人々に対しても「恵みあれ。これに恵みあれ」と言いながら、私たちは労していくんですね。なかなか再建せずに、基礎を据えたまま18年工事がストップしてしまった、ということに失望しているイスラエルの人々に対しても、 叱咤激励する代わりに、「恵みあれ。恵みあれ」と語りながら、互いに労していくのです。

 私たちの教会に来ていてくださっているKSさんは、心理学が専門で、しかもそれがアンガーマネージメントなんです。アンガーマネージメントというのは、皆さんの中でぜひ受けられた方がいいという方もいらっしゃると思いますけれども、

自分の中で生じて来る怒り

というものに、どういうふうに

対処するか?

ということです。


Anger Management Icon


私は、うちの教会の鍼灸師のIさんに脈を測ってもらうと、「先生、肝臓が熱いです」と言われるのです。

「どういう人が肝臓が熱いの?」とお聞きしますと、

「いつもイライラしている人は肝臓が熱くなるんです。先生、イライラしてるでしょう?」と言われる。

私は 「全然イライラしていないよ!」って言うのですが(笑)、本当はイライラしているんです(大笑)。


どういう人がイライラするんだろう?どういう人が怒りを抑えられないんだろう?どういう人が爆発するんだろう?・・これは、やっぱりある程度マネージするような人間になろうと思わなければ、キリスト者として成熟することは不可能です。

生きている限り、私たちはを謗中傷する人は出て来る。生きている限り、私たちは失望に巻き込まれる。生きている限り、自分の計画は挫折する。その度ごとに私たちはイライライライラして、 どうしよう、どうしようと走り回るんですが・・





Yellow Floral Botanical Corner Border Frame Element Autumn Themed Linocut Stamp

それを整えようとする時に、このことば、

「恵みあれ。これに恵みあれ」

と言いながら、着々と一歩ずつ石を積み上げて

いく。

まぁ、もちろん再建の仕事をしながら、不平不満に満ちた人々もいたに違いないと思います。

 指導者ゼルバベルに反抗の怒りをぶつけた人も

いたに違いないと思います。


しかし「恵みあれ。恵みあれ」と言いながら、

私たちを潰しに来る圧力、反対・敵対という思いを溶かしていく。


なぜそんなことができるのか?




――それは、この働きは、

『権力によらず、能力によらず、わが霊によるなり』

と神さまが仰っている限り、

あなたの憤り、あなたの怒りにいったい何の意味が

あるのでしょうか。


「所詮、あなたはこれを建てる力もなく、これを建てる意欲もなく、わたしがこれを建てるのではないか」


というゼカリヤ書4章のことばが、

どれほどクリスチャンにとって、人生のすべてのページに印章のように押されていかなければいけないかということがよくわかると思います。


お祈りをして、終わりにいたしましょう






Yellow Floral Botanical Corner Border Frame Element Autumn Themed Linocut Stamp

お祈り

藤本 満 牧師

恵み深い天の父なる神さま

卒業していくKS君やIH君を見ますと、

振り返って「主がここまで私たちを助けて

くださった」という、エベン・エゼルの塚を

建てて行くことでありましょう。

同時に、夢をたくさん心の内に抱きながら、

全く新しい世界に出て行きますので、

そこにもまた、

『権力によらず、能力によらず、

わたしの霊によって』という

あなたからのこのみことばを

記していくことができますように。


Continuous line drawing of Christian prayer, vector illustration.

なぜなら

私たちには所詮、権力もなければ

所詮、力量も才能もないのですから

『すべてのことがあなたの霊による』という

この認識に立つことができるように

私たちを助けてください。

愛する主

イエス・キリストの御名によって

お祈りいたします。

アーメン。






2020 3 22

ゼカリヤ書

5

罪を取り除く神

ゼカリヤ書 5

Continuous line drawing of Jesus Christ vector illustration

さて、二週、間が空きましたけれども、このゼカリヤ書の学びに戻ってみたいと思います。

戻るんですけれども、また受難週に入りますので離れます。そこで考えました。

今日は、5章ですから、2つの幻が記されています。

一つが巻物の幻、「飛んでいる巻物」の幻ですね。もう一つが6節からの「出て行くエパ升」の幻の話ですが、ここで、これまでの話を総括してみようと思います。

総括するには、説教の半分くらいの時間がかかります。皆さんには聖書を開いていただかなければなりませんけれども、 時間をかけながら総括をし、そして今日のところを、一緒にお考えいただきたいと思います。


1)これまでの話の総括

ハガイ書というのは、ゼカリヤ書の一つ前ですけれども、これを一緒に見てください。

 今、万軍の【主】はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。(ハガイ1:5)

 これは7節にも出てまいります。

あなたがたと呼ばれるイスラエルの人々は、バビロン捕囚から解放されて、神殿を建てるように促されながら、神殿の基礎工事は完成いたしました。

でも人々はやがて9節の最後にありますように、「あなたがたがそれぞれ、自分の家のために走り回っていた」基礎工事だけ終えて、神殿の再建を諦めてしまいます。

それなりの理由はあります。

周囲の民族の妨害はありましたし、本当の意味で自分の家を建てる必要もありましたし、また中には神殿の基礎があまりにも小さいことに失望した。

つまり自分の力のなさに失望した人々は、神殿の工事を中断してしまいました。


 さて、「神殿の再建というのは、まさに私たちの信仰生活なんだ」という話から、元旦礼拝は始まりました。 一年の最初の日に、「あなたがたの歩みをよく考えてみよ」と。

 周囲の妨害はあるかもしれない。また自分の生活を整える必要もあるかもしれない。

時に自分自身の力の乏しさに失望し、絶望してしまうからかもしれない。

往々にして私たちは、どこかで信仰生活を建て上げるという、この努力を止めてしまうんですね。

私たちはみんなどこかで、(この信仰生活を建て上げる努力を)止めてしまう。


 新約聖書を見ますと、神殿というのは建物ではないですね。 神殿というのは私たち自身であり、神の霊が宿る私たち自身であり、また神殿というのはキリストのからだです。






 ところがどこかで周囲に躓かされ、自分の弱さに失望し、この神殿の建設を止めてしまっている私たち。 そういう現実の中で、神さまが立ち上がられたという話をいたしました。

それが(ハガイ書)1章の14節ですね。


【主】がシェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と、民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の【主】の宮に行き、仕事に取りかかった。 (ハガイ1:14)


神さまが私たちの霊を奮い立たせたと。ゼルバべルは行政指導者で、信仰の指導者がヨシュア。 それだけでなく、残りの民すべての霊を神は奮い立たせて、神殿再建、信仰生活の建て上げに、もう一度私たちが向かうようにしてくださったとありました。






 さて、ハガイ書と同じ時期に預言書を記しましたゼカリヤですが、 ゼカリヤ書に出て来る幻の中で、3章の幻を前々回のときに見ました。

3章の幻では、信仰の指導者・大祭司ヨシュアが天の法廷に立たされています。

そこでサタンが彼を責めていますね。

(ゼカリヤ3章)1節の最後に、「サタンが彼を訴えようとして彼の右手に立っていた」とあります。

このサタンは大祭司ヨシュア、信仰の指導者ヨシュアに向かって、「この者は罪人です」と責めているんです。

【※つまり、主イエスは、そのような存在に過ぎないヨシュアのことを、「確かに彼は火から取り出した燃えさしだ」と仰り、逆にサタンをとがめられた上で】

すると神さまは、このヨシュアに汚れた服を脱がせて、礼服を着せてくださっています。









それが4節――

御使いは、自分の前に立っている者たちにこう答えた。「彼の汚れた服を脱がせよ。」そしてヨシュアに言った。「見よ、私はあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。」 (ゼカリヤ3:4)

こうして信仰の指導者ヨシュアは新しい者、新しくされて民の先頭を行く者とされます。

 前回見ました4章には、今でもイスラエルのシンボルである7本の管のついた燭台、

メノーラの幻が記されています。

4章の2節と3節を読んでいきますね。

彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」私は答えた。「私が見ると、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があります。この上部にあるともしび皿には、それぞれ七本の管が付いています。(ゼカリヤ4:2~3)






Menorah Hanukkah


 これが完成した神殿の姿ですね。そして3節に――

また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はその鉢の右に、もう一本は左にあります。」

これは、行政指導者ゼルバベルと信仰指導者ヨシュアのことです。

この二人は神殿再建のために尽力をし、その前に、それにふさわしく整えられる必要がありました。

今日開いていただいたのは5章ですが、その前に4章の6節をちょっと見ていただきたいのです――

この「神殿再建の働き」、つまり私たちの「信仰生活の建て上げの働き」というのは、やはり6節なんですね。

彼は私にこう答えた。

「これは、ゼルバベルへの【主】のことばだ。

『権力によらず、能力によらず、

わたしの霊によって』

と万軍の【主】は言われる。

(ゼカリヤ4:6)










Olive Tree Branch Watercolor

権力とは文字通りには武力ですが、能力は人間の才能や力量ですね。

「信仰生涯の完成」「来るべき神の国の完成」というものは――もうちょっと小さなレベルで言えば「私たちの働き」というのは――『武力によらず、人の才能や力量によらず、わたしの霊によって』と神さまは仰ったのです。

ゼルバベルは、4章の7節で、こう言われます。

大いなる山よ、おまえは何者か。

おまえはゼルバベルの前で平らにされる。

彼がかしら石を運び出せば、

『恵みあれ。これに恵みあれ』と

叫び声があがる。」 (ゼカリヤ4:7)

ゼルバベルを中心に石を切り出し、

運び出す時に、天からの声が上がる

わけです。 「恵みあれ。

これに恵みあれ」と、神さまの励ましがある。


Hand with a Crystal
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 【※敵対する人々に対しても「恵みあれ。これに恵みあれ」 誹謗中傷する人々に対しても「恵みあれ。これに恵みあれ」 工事中止に失望しているイスラエルの人々にも、叱咤激励する代わりに「恵みあれ。これに恵みあれ」とゼルバベルも民も叫びながら互いに労して行くと、3/1に学びました。】


 今お話したことは、昨年学びました

ピリピ人への手紙のパウロの言葉と

非常によく似ています。

ピリピ人への手紙の2章の13節――

せっかくですから、昨年の元旦礼拝の言葉も見ておきましょう。 先にこちらをちょっと読んでいきますね。


あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。 (ピリピ1:6)







「神殿再建を開始された方はそれを完成させてくださる」というのは、神さまです。

神殿再建の働きは神がなさるのですね。

神がなさるんです。

霊を奮い立たせることも、

再建行事の道を開くことも、

それを完成させてくだ

さることも、神さまの働きなんです。

ですから、「権力によらず、能力によらず、わが霊によって」というのは全部神の働きなんです。


ところがですよ、神さまは私たちを用いられるんです。 (ピリピ)2章の13節を見てください。昨年ピリピで学びましたね。

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。

(ピリピ2:13)





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 【※敵対する人々に対しても「恵みあれ。これに恵みあれ」 誹謗中傷する人々に対しても「恵みあれ。これに恵みあれ」 工事中止に失望しているイスラエルの人々にも、叱咤激励する代わりに「恵みあれ。これに恵みあれ」とゼルバベルも民も叫びながら互いに

労して行くと、3/1に学びました。】


 今お話したことは、昨年学びました

ピリピ人への手紙のパウロの言葉と

非常によく似ています。

ピリピ人への手紙の2章の13節――

せっかくですから、昨年の元旦礼拝の言葉も見ておきましょう。 先にこちらをちょっと読んでいきますね。


あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。 (ピリピ1:6)







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神さまは私たちを用いてくださる。

ですから全部神さまの働きで、

神の霊によるんですけれども、

神さまは先ず私たちの内に志を

立てさせて、その志を実行する力も

神さまが与えてくださいます。

そうなりますと、大切なのは、

昨年お話ししました14節であると。

14節にはこうあります。


すべてのことを、不平を言わずに、

疑わずに行いなさい


というのは、先ほどのゼカリヤで言うならば、

「恵みあれ、恵みあれ」(ゼカリヤ4:7)と天からの声を聞きながら、 神殿再建の働きの希望を失わず、労苦を惜しまず、祝福を願いながら、淡々と進めて行くこの姿です。






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 人々は周囲の妨害があり、自分の弱さに絶望し、神殿の小ささに嫌気がさして、自分の家を整えることに必死になり、神殿再建の働きを止めてしまった。

神さまは

「あなたがたの今日、

今をよく考えてご覧なさい。(ハガイ1:5、7)」

本当にそれでいいのか?

あなたは本当に信仰に

――神の国を第一として――

歩んでいるのか?

それとも自分の家のことで

頭がいっぱいなのか?

(ハガイ1:9)」

というこの疑問に対して、

――私たちの尻に鞭打って、

「さあ、立ち上がって

もう一回奴隷のごとく両方頑張りなさい」

と神さまは仰らない――








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神さまは、私たちの内側の霊を奮い立たせて

(ハガイ1:14)、そして

「あなたの働きはその初めから

終わりに至るまでわたしの働きなのだ。

わたしの霊があなたを動かす。

わたしの霊があなたの失望を希望に変える。

わたしが天から、あなたが石を切り出すたびに、『恵みあれ、恵みあれ』と応援、エールを送る」と(ゼカリヤ4:7)。

だからピリピの言葉で言うならば――

「せめて、疑わずに、つぶやかずに、不平を言わずに(ピリピ2:14)、神の働きを神が完成してくださる(同1:6と2:13)と信じて、淡々と行って行きなさい。」

というメッセージは、ゼルバベルだけではない、ヨシュアだけではない、民の残りの者全員に聖霊はその声をかけるから神殿はできるのですよ。







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 つまり、ゼルバベルとヨシュアという指導者に、

その二人の霊を神さまは奮い立たせた所で、

民が動かない限りは神殿は再建されないんです。

神さまは確かにこの二人を指導者として立てられた。

しかし神さまは民の残りの者全員に

同じ霊をもって奮い立たせると仰ったんですね。


私は来週、皆さんの週報に紙を一枚挟もうと思います。 昨日フェイスブックを見ていましたら、ドイツにいる日本人クリスチャンが、メルケル首相の演説を全文日本語に翻訳してくださっていました。

それは、一国の首相がこのパンデミックの中で、国民全体を統一するためにこういう言葉を発するかと、私はもうびっくりしてしまいましたね。そのあまりにも信仰的で、あまりにも見事な演説の中に、 こういう演説はアメリカの大統領にはできないだろうなぁと思いましたし、日本の首相も程遠いなぁと思いましたね(笑) 。










German Flag

その方が全文を翻訳するきっかけが最初に書いてありまして、

「メルケルさんの演説を聞いたから

外に出るのは止めようね」

「メルケルさんの演説を聞いたから

不平を言うのは止めようね」

と、みんな言っていたと。

そのメルケルさんの演説は、

「ドイツの東西が統一されるに勝る力が必要だ。

それは第二次世界大戦以来の力が必要だ、

この危機を乗り越えるためには。

人間がこれほど弱いと思わなかった。

政府は、国は全力を尽くす。

だけど一人ひとりが責任を持って、

やるべきことがある……」

と延々とすばらしい演説が為されて、あ、ドイツは変わって行くんだろうなぁという風に思いました。








German Flag Map


 ですけれども、演説一つで、人は変わらないのです。 ゼルバベルもきっと演説をしたに違いない。

ヨシュアもしたに違いない。

でも残りの民すべてに神の霊が注がれ、

(すべての民を)奮い立たせて初めて、

神殿は完成されていくんですね。

高津教会が完成される日が来るでしょう。

あるいは神の国がこの世界に

確立される日が来るんでしょう。

私たちの人生もそうなんでしょう。

しかし、それはすべて私たちの力によるのではない。


突き詰めて言えば、『権力によらず、能力によらず、わが霊による』(ゼカリヤ4:6)という時に、とても大切なことがこの5章に記されているんです。

ここからが後半(今日の箇所)です。

後半は短いですけれども、よく読んでいただきたいと思います。










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2)飛んでいる巻物の幻


ゼカリヤの5章の1節です。

どんな幻を見たのか?

今までにないテーマが書かれています。

5書の1節――

私が再び目を上げてみると、なんと、一つの巻物が飛んでいた。 (ゼカリヤ5:1)


「巻物」というのは聖書です。神のことばです。

「飛んでいる」というのは、3節の「すると彼は私に言った。『これは全地の表に出て行くのろいだ。』……」の「全地の表」と重なるように、イスラエル世界全部を巡る神の言葉です。 この神の言葉の幻は、実に大きかった。 聖書の長さは20キュビト、幅は10キュビト――これを換算してみました。

長さ9m、幅4.5mです。



Paper Scroll Illustration
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 それが飛んでいるんですね。すなわち誰の目にも留まるように、聖書・みことばが飛んでいる。

全地の表を飛ぶ時に、3節を見てください。

……盗む者はみな、一方の面に照らし合わせて取り除かれ、また偽って誓う者はみな、もう一方の面に照らし合わせて取り除かれる。」(ゼカリヤ5:3)

ということはどういうことなのか?

「盗む者」「偽って誓う者」は十戒・旧約聖書における一番基本的な神さまのみこころに背くような者はみな、この巻物によって「取り除かれる」という意味です。

とっても大切なことですね。

みことばは私たちの目に明らかになりながら、私たちの日常を、この世界を行き巡り、私たちを照らす。

「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です」

と第一コリントの1章18節にありますよね?

聖書のことばは信じる私たち、

救われる私たちには神の力だと。











Corner floral ornament element


信仰者にとっては力となり、平安となり、慰めとなって、私たちを救うんですけれども、

《同じ聖書のことばが、私たちの罪深さにあっては、深い悔い改めとなり、その罪は取り除かれて行かなければならない。》

私はこれ【《 》の神の霊の働き】が、先程のハガイ書の言葉「神の霊が私たちを奮い立たせる」(ハガイ1:14)という時に、これが含まれていると思うんです。

つまり主が私たちの内に働かれる時に、私たちを強くして慰め励ますだけではない。

私たちは神殿建設、信仰(生涯)の建て上げを可能にしようとする時に、

主の霊が私たちを奮い立たせる時に、

《私たちは自分の罪が示され、自分の罪を悔い改め、自分の罪を取り除いて初めて》、

主の霊はまことの意味で私たちを奮い立たせる。



 私たちが、それらの罪を取り除いていただいて初めて、『権力によらず、能力によらず、わが霊による』ということになるのではないでしょうか?


3)二番目の幻はエパ升です。

エパ升というのは、穀物の分量を量る升

ですけれども、1エパが22リットルですから、

やはりかなり大きな升ですね。

ゼカリヤは「これはいったい何ですか?」と6節の最初に訊いています。 エパ升の中に入っているものは、8節にありますように「これは邪悪そのものだ」と。 つまり民の罪深さ、私たちの罪深さがエパ升の中に入っています。 すると8節の終わりにありますように、(※この邪悪そのものが)「鉛で蓋をされ」、 9節に二人の女性が出て来て、その女性にはこうのとりのような翼があって、その罪・邪悪そのものが詰まったエパ升を、11節のシンアルの地に――バビロンに連れ運ばれて行く。

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つまり(最初の飛んでいる巻物の幻と)同じ種類の幻なんです。

みことばが私たちを行き巡り、私たちはその罪を悔い改め、罪から離れ、罪は特別な容器に閉じ込められ、そして「滅びの地」へと運ばれて行く。

これが神殿建設にどうしても必要なプロセス。

これがなければ神殿は建設されない。

何しろ神殿は「神の聖なる宮」です。

それを私の内側に打ち建てようとした時に、聖霊は私たちの罪を示し、私たちに悔い改める力を与え、そしてそれらを取り除いてくださる。

両方とも(※「飛んでいる巻物」

「エパ升」共に)同じですよね?

私たちの力によるものではないです。

神の霊が私たちを奮い立たせる時に、自然とそのように私たちは罪から離れていくんです。

自分に何か気づいて悔い改めたのではない。



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 《神の霊が私たちに示して、私たちに悔いる心を与え、そして自分の良からぬ点を是正し、私たちの内側から罪を取り除いてくださる。》

二人の女性が出て来て、見よ、こうのとりのような翼を持った者たちは、その私たちの罪を鉛で蓋をして、エパ升をシンアルの地に運び去ってくれたというのは、

それは神さまが、私たちの内側から(罪を)取り除いてくださる。

私たちは、このことはゼカリヤ書の中に入っているということを、しっかりと心に留めていただきたい。

で、またしばらく休みますけれども、戻って来た時にもう一回見ていただきたいと思います。


一つ話をして終わりにいたします。

18世紀のイギリスに信仰復興運動をもたらしたジョン・ウェスレーですが、

彼の最初の野外説教は、1739年4月2日、ブリストルの丘でありました。

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当時ブリストルというのは炭鉱の町ですね。

時間は夕暮れ時。

炭鉱夫が一日働いて、そして自分の家に帰って行くのを捕まえて野外で説教をするわけです。

これまでウェスレーという人は、説教をするには、オックスフォードの大学や、あるいはロンドンや

オックスフォードの聖書研究会でみことばを説いて来た人物でありますから、非常な違和感を感じました。

ウェスレーをこの働きに、この場所に呼び出したホイットフィールドというウェスレーの後輩がいるんですけれども、 「まずぼくがやるから、先生、

見ててくださいよ」

ウェスレーはそれを見たんですね。

何千人という人が集まって来て、

ホイットフィールドの説教に耳を傾けていました。

その日、ウェスレーの日記はこうです。


Hand Holding Quill


 「ホイットフィールド君は、これを私にやってくれと言うのだ。 果たしてそんなことができるのだろうか?

私はこれまで、人が救われるのは

教会の中でのみと考えて来た。」

彼のその思いは想像がつきますね。

みんな立ち止まってくれるんだろうか?

みんな聞いてくれるんだろうか?

いや、聞いてくれたとしても

何の教育もない彼らが

私の説教が解ってくれるんだろうか?

心に届くんだろうか?

ホイットフィールドは、見本を見せると

さっとブリストルから立ち去って行きます。

ウェスレーだけ残されるんですね。

こういう風にやってくださいよって(笑)

ウェスレーは、「え~!できるの?私に?」(笑)

しかしその日の夕方、日記に記しています

   ――「自らを卑しくして、野外に立った」。








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「自らを卑しくして」というのは、できるんだろうか?解ってもらえるんだろうか?という疑いも、野外で説教をするという恥も、すべて自分のこれまでの聖職者としての自己意識さえも捨てて、彼は説教をしたんですね。


そうしましたら、一番驚いたのは彼、

ウェスレーだったのです。

なんと三千人。三千人の会衆が耳を傾ける。

先に申し上げましたように、まさか聞いてくれるとは思わなかった。

そしてその中の多くが、聖霊の感動を受けて、罪を悔い改め、十字架を信じます。

その日に変わります。でも一番変わったのは、ウェスレー本人です。

一番変化を体験したのは、ウェスレー本人でした。

どういう変化か?


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それは、『権力によらず、能力によらず、わが霊によって』という聖霊の力を、ウェスレー自身が体験してしまったんですよね。

彼は大伝道者になって行きます。

そして人々は、それから先何十年もいや何百年も、アメリカにおいて(※メソジスト派)、信じると共に、罪の悔い改めへと導かれていき、罪が取り除かれて行きます。ウェスレーの野外集会と言うのは、国教会の司祭からはものすごい批判、つるし上げを食らいました。

野外で人々が賛美歌を歌う――それはいいとしても――野外で人々が悔い改めてひざまずいて祈っているという姿が、何とも言えず悪霊につかれているように、人々には映ったんですね。

熱狂的に悪い霊がとりついて、

人々は涙を流して悔いて祈っていると、

異様な光景だったと思います。









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そうした中でウェスレーの弁明は、非常に単純明快でした。

これがとっても大切です。

「酒に酔う者が、真面目で節度ある生活を始めた。

遊郭に足を運んでいた者が、姦淫の罪を捨てた。

不正を行う者が、抑圧と不義から離れた。

何年もの間、神を呪うような暴言を吐くことを習慣としていた者が、その習慣を断ち切った。

浮浪者が働き始め、今では生計を立てている。

守銭奴が貧しい人々に施すことを、裸の者に着せることを学んだ。

まさに彼らの生活の全貌が変わった。

しかしこれだけではない。

彼らの外側の変貌に増して、彼らは内側の宗教を

体験したのだ。」




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というのがウェスレーの弁明なんです。

つまり罪が取り除かれた。

罪が取り除かれたのであれば、

それは聖霊の働き以外にないと。

場所は教会でないかもしれない。

少し集団的な心理も働いて、異常な程の高揚感があるのかもしれない。

でも罪が取り除かれたというのは、まさしくこれが神の働きであるということの証明ではないだろうか?

という風にウェスレーは述べたのです。


逆に言えば、どんなに大きな神殿を建てたとしても、

どんなに立派な信仰生涯を過ごしたとしても、


「罪が取り除かれないのであったら(笑)、

     それは聖霊の働きによるとは言い難い」

そういう結論になるのではないでしょうか?










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お祈り

藤本 満 牧師

恵み深い天の父なる神さま

結局何一つ自分の力ではできず

もしそれが私たちの力であるならば

周囲の妨害ですぐ止めてしまい

また、やったことの出来映えに

失望して放棄してしまい

結局のところ日常的な必要に

追い回されるような私たちでありますが

もしそれが神の働きであるなら

あなたは数名の指導者の霊を

奮い立たせるだけでなく

私の霊をも奮い立たせてください。


私の内側から罪を取り除いて

天から聞こえて来る

「恵みあれ、恵みあれ」という声援に

応える力を必ずやくださる――そのことに

私たちも希望を置き

「あなたがたの間で良き働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでに

それを完成させてくださる」(ピリピ1:6)

ということを、しっかりと受け留めておくことができますようによろしくお願いいたします。

愛するイエス・キリストの御名によって

お祈りいたします。

アーメン。







Continuous line drawing of Christian prayer, vector illustration.